鄙乃里

地域から見た日本古代史

2019-01-01から1年間の記事一覧

20.熟田津石湯の地は?(9)~橘の岡~

20.熟田津石湯の地は?(9)~橘の岡~ 今は存在しないが、当地には昔、岡があったようである。 橘新宮神社の『旧故口伝略記』には、 橘 岡昔、此岡を石湯の岡とも申せしとぞ。その後橘天王の宣言に依りて橘岡と申すなりとぞ。 真鍋充親著『伊豫の高嶺』よ…

19.熟田津石湯の地は?(8)~石湯八幡と橘の木~

19.熟田津石湯の地は?(8)~石湯八幡と橘の木~ 西条市西田の東の地続きに安知生(あんじゅう)という土地がある。橘新宮神社の旧跡は最近まで西田の畑地だったが、何年か前に区画整理されたため、現在の地図では安知生新開に入っているようである。 新…

18.熟田津石湯の地は?(7)~神像の年代について~

18.熟田津石湯の地は?(7)~神像の年代について~ そのほかにも、写真で見る公卿神像が「そんなに古いようにも見えない」との(墨書に対するらしい)否定的な:言辞もあった。それはそれで、見る人の判断だから仕方がない。その人なりの率直な感想だとし…

17.熟田津石湯の地は?(6)~『旧故口伝略記』の話~

17.熟田津石湯の地は?(6)~『旧故口伝略記』の話~ 橘新宮神社には神像のほかにも『旧故口伝略記』(きゅうこくでんりゃっき)という文書があり、真鍋充親著『伊予の高嶺』に採録されている。ただ原文通りというわけではなく、内容はそのままに、表記を…

16.熟田津石湯の地は?(5)神像と墨書

16.熟田津石湯の地は?(5)神像と墨書 少し余談になるが、ある本に、この公卿神像の墨書について「もしこの文字が、盲信した神主により加筆されたものだとしたら、信じた場合には大変なことになる」という意味のことが書かれていた。これを読んで驚いた。…

15.熟田津石湯の地は?(4)公卿神像

15.熟田津石湯の地は?(4)公卿神像 橘新宮神社(たちばなしんぐうじんじゃ)は、現在は豊受大神・天太玉命・瓊瓊杵尊を祀っている。伊勢外宮の祭神であるが、これはおそらく元の橘神宮の社名や、中野の伊曽乃神社が内宮の天照大神(荒魂)を祀っているこ…

14.熟田津石湯の地は?(3)~熟田津と西田村~

14.熟田津石湯の地は?(3)~熟田津と西田村~ 熟田津が松山周辺でなければ、熟田津の地はいったいどこにあるのだろうか? 先の『伊豫温故録』には、次のような一文が書かれている。 真の熟田津の地は道前なる新居郡西田村なり そこでは『保國寺縁起』と…

13.熟田津石湯の地は?(2)~熟田津松山説~

13.熟田津石湯の地は?(2)~熟田津松山説~ 熟田津の場所を知るためには、熟田津の意味から考えてみる必要があるかもしれないが、いずれにしても、熟田津そのものは津である。津は海岸の船着場である。 熟田津松山説では、熟田津の比定地として御幸寺(…

12.熟田津石湯の地は?(1)~里と郷~

12.熟田津石湯の地は?(1)~里と郷~ 古代「伊豫の湯」が現在の道後温泉ではなく、熟田津石湯(にきたつのいわゆ)であったことがこれまでの経過ではっきりしたが、肝心の熟田津石湯の場所がどこなのかは「豫州温泉古事記」の記事からだけでは確認できな…

11.越智玉澄の時代と湯釜薬師(2)

11.越智玉澄の時代と湯釜薬師(2) 道後温泉には、明治27年に本館が建設されるまで使用されていた湯釜(ゆがま)というものがある。湯釜は大きな石で造られた円筒状の温泉の湧出口のことで、養生湯で使用されていたそうだが、それが本館建設のときに新しく…

10.越智玉澄の時代と湯釜薬師(1)

10.越智玉澄の時代と湯釜薬師(1) 明治27年に松山で刊行された宮脇通赫著『伊豫温故録』には、道後温泉の項目に「豫州温泉古事記」というものが引用されている。 「豫州温泉古事記」自体についての詳細は分からないが、『伊豫温故録』は明治以前における…

9.聖徳太子の伊社邇波の岡

9.聖徳太子の伊社邇波の岡 山部赤人の本歌の射狭庭(いさにわ)の岡と、聖徳太子等が訪れた伊社邇波(いざにわ)の岡とでは文字が異なるため、これらは別であり、読み方も上記のように異なるとの指摘もある。 上宮聖徳の皇を以ちて、一度と為す。及、侍は…

8.山部赤人と伊豫の湯(2)

8.山部赤人と伊豫の湯(2) また山部赤人の本歌にある「島山」は、筆者も最初は島と山のことだと解釈していたが、よく読むと、本当に島と山のことだろうか。なぜなら、島と山を褒めておいて、また続いて伊豫の高嶺が詠まれているのは、いかにも重複して不…

7.山部赤人と伊豫の湯(1)

7.山部赤人と伊豫の湯(1) 山部赤人の万葉歌(巻三 322)は古代「伊豫の湯」を詠(うた)ったものと思われる。実際にも、前書きにそう書かれている。 山部宿禰赤人、伊豫の温泉に至りて作る歌一首 并に短歌 皇神祖(すめろぎ)の 神の命の 敷います 國の…

6.道後温泉 ~二つの誕生説話~

6.道後温泉 ~二つの誕生説話~ 現在の道後温泉の誕生説話には二通りがあり、先述の『伊豫国風土記』の少彦名命の伝説と、[白鷺飛来説」の二話が伝えられている。 [白鷺飛来説」のほうは、こうである。 昔、足に傷を負い苦しんでいた一羽の白鷺が岩間から…

5.道後温泉は、熟田津石湯?

5.道後温泉は、熟田津石湯? 松山では「道後温泉は昔は熟田津石湯(にきたつのいわゆ)と称した」ともいっている。それでは熟田津石湯の意味は何か。それがいつ、なぜ道後温泉に名称変更されたのか。その両者の具体的な関係はどうなっているのかなど、その…

4.白鳳大地震と伊豫の湯

4.白鳳大地震と伊豫の湯 『日本書紀』によると、天武天皇13年(684年)の白鳳大地震により伊豫の湯が壊没して出なくなっている。土佐では陸地が海になっている。伊豆の島にも造島現象があったらしい。海溝型の連動地震で、東日本大震災や宝永地震ほどの規…

3.少彦名の温泉譚は地名説話

3.少彦名の温泉譚は地名説話 「風土記」は元明天皇の和銅6年(713) 5月の官命により編纂された各地方の報告書のようなもので、国別の地勢・産物・故事・伝承などが記されている。中でも特徴的なのは、地名の由来を説く地名説話が多いことである。この「湯…

2.『伊豫国風土記』の湯郡と道後温泉

2.『伊豫国風土記』の湯郡と道後温泉 古代「伊豫の湯」道後温泉説は、もともと『伊豫国風土記』逸文の記述を根拠として成立している。 伊豫の國の風土記に曰はく、湯の郡、大穴持命(おおなもちのみこと)、見て悔い恥ぢて、宿奈比古那命(すくなひこなの…

1.真実の探求は前提に対する疑問から

1.真実の探求は前提に対する疑問から 『伊豫国風土記』にみられる古代「伊豫の湯」と代々の天皇並びに聖徳太子らの来訪記事に関しては、事実の探求よりも伝承が一人歩きしているため、『釈日本紀』引用の『伊豫国風土記』逸文を根拠とした道後温泉説に落ち…

『伊豫国風土記』逸文の疑問

《 目 次 》 大山祇神社は摂津の三島鴨か?(1) 大山祇神社は摂津の三島鴨か?(2)

大山祇神社は摂津の三島鴨か?(2)

~『伊豫国風土記』逸文の疑問~ 前稿の通り『伊豫国風土記』逸文の記事には疑問を感じるが、それが全くの作り事を書いているかというと、そうとも考えにくい。なぜなら、そんなことをしても、利益がないからである。そこで、本文と思われる文章をもう一度よ…

大山祇神社は摂津の三島鴨か?(1)

~『伊豫国風土記』逸文の疑問~ 『伊豫国風土記』逸文には大山祇神社が摂津の御島から移動してきたように書かれているが、それは、はたして真実なのだろうか? この記事に疑問を抱いているのは自分だけではないと思うが、記事自体が引用されることはあって…

倭の五王

《 目 次 》 1.倭の五王が簡単に分かる法 2.倭の五王、朝貢の背景 3.倭の五王、比定の問題点

3.倭の五王、比定の問題点について

3.倭の五王、比定の問題点について 終わりに、倭の五王を比定するにあたって問題とされる箇所についての私見を、簡単に書き加えておきたい。 以下の表は倭国の朝貢記事を順に並べて、その間に『古事記』の干支による天皇崩御年を当てはめてみたものである…

2.倭の五王、朝貢の背景

2.倭の五王、朝貢の背景 当時の倭国は朝鮮半島も含めた文化圏の中に存在したから、朝鮮半島における自国の影響力をめぐって、北方の高句麗とはしのぎを削り合っていた。好太王碑文に見られるように、当時の高句麗は強国であり、軍事的にも倭国と対立してい…

1.倭の五王が簡単に分かる法

1.倭の五王が簡単に分かる法 「倭の五王」とは、5世紀中国南朝宋の歴史を記した『宋書』ほかに名前が登場する日本の王のことで、当時の東晋や宋に遣使貢献をして、朝鮮半島南部の国々を軍事的に統率する爵位の授与を求めたとされている。 この5人の王の…

ン? 大山祇神は事勝国勝長狭?

ン? 大山祇神は事勝国勝長狭? また『日本書紀』に、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が笠沙岬(かささのみさき)に着いたとき一人の人物がいて、事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)と名乗った。そのため、これを大山祇神の別名だという説もあるらしい。 こ…

『三島宮御鎮座本縁』に見える大山積神

《 目 次 》 三島の宮と今治市について 1.大山祇神社の祭神 2.三島宮の祭祀と遷宮 3.大山積皇大神はなぜ面足・惶根尊なのか? 4.大山祇神社と伊豆三嶋大社の関係(1) 5.大山祇神社と伊豆三嶋大社の関係(2) 6.大山積皇大神と境内社 7.伊予…

大山祇神は女神かもしれない?

大山祇神は女神かもしれない? ある冊子のコラム記事に、大山祇神は『日本書紀』の一文により、女神ではないかと疑われる箇所があるとの話が載っていた。そこで、そんな妙な話があるのかと思って『日本書紀』を覗いてみた。 なるほど「神代記下」には、以下…