鄙乃里

地域から見た日本古代史

2019-11-01から1ヶ月間の記事一覧

14.熟田津石湯の地は?(3)~熟田津と西田村~

14.熟田津石湯の地は?(3)~熟田津と西田村~ 熟田津が松山周辺でなければ、熟田津の地はいったいどこにあるのだろうか? 先の『伊豫温故録』には、次のような一文が書かれている。 真の熟田津の地は道前なる新居郡西田村なり そこでは『保國寺縁起』と…

13.熟田津石湯の地は?(2)~熟田津松山説~

13.熟田津石湯の地は?(2)~熟田津松山説~ 熟田津の場所を知るためには、熟田津の意味から考えてみる必要があるかもしれないが、いずれにしても、熟田津そのものは津である。津は海岸の船着場である。 熟田津松山説では、熟田津の比定地として御幸寺(…

12.熟田津石湯の地は?(1)~里と郷~

12.熟田津石湯の地は?(1)~里と郷~ 古代「伊豫の湯」が現在の道後温泉ではなく、熟田津石湯(にきたつのいわゆ)であったことがこれまでの経過ではっきりしたが、肝心の熟田津石湯の場所がどこなのかは「豫州温泉古事記」の記事からだけでは確認できな…

11.越智玉澄の時代と湯釜薬師(2)

11.越智玉澄の時代と湯釜薬師(2) 道後温泉には、明治27年に本館が建設されるまで使用されていた湯釜(ゆがま)というものがある。湯釜は大きな石で造られた円筒状の温泉の湧出口のことで、養生湯で使用されていたそうだが、それが本館建設のときに新しく…

10.越智玉澄の時代と湯釜薬師(1)

10.越智玉澄の時代と湯釜薬師(1) 明治27年に松山で刊行された宮脇通赫著『伊豫温故録』には、道後温泉の項目に「豫州温泉古事記」というものが引用されている。 「豫州温泉古事記」自体についての詳細は分からないが、『伊豫温故録』は明治以前における…

9.聖徳太子の伊社邇波の岡

9.聖徳太子の伊社邇波の岡 山部赤人の本歌の射狭庭(いさにわ)の岡と、聖徳太子等が訪れた伊社邇波(いざにわ)の岡とでは文字が異なるため、これらは別であり、読み方も上記のように異なるとの指摘もある。 上宮聖徳の皇を以ちて、一度と為す。及、侍は…