鄙乃里

地域から見た日本古代史

13.熟田津石湯の地は?(2)~熟田津松山説~

13.熟田津石湯の地は?(2)~熟田津松山説~

 熟田津の場所を知るためには、熟田津の意味から考えてみる必要があるかもしれないが、いずれにしても、熟田津そのものは津である。津は海岸の船着場である。

 熟田津松山説では、熟田津の比定地として御幸寺(みきじ)山麓、和気・堀江、古三津(ふるみつ)などが候補とされているが、この中では御幸寺山が道後温泉(鷺谷)に近いだけで、その他は、いずれも温泉からはかなりの距離があり、往古の地形を考慮しても、道後温泉の近くに海岸の船着場などは想定できない。また近くの御幸寺山にしても、あんな所に海岸線があったのか、川でも遡上してきたのではないかと疑われる場所である。

 

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 道後温泉付近から御幸寺山までは直線距離で1.3㎞、古三津までは5.2㎞、堀江までは8㎞ほど

 

 それらの候補地は、『豫州温泉記』に、温泉は「海から2,3里離れている」と記されている内容とは、ぜんぜん合致していない。当時の「里」がどれほどの距離なのかは解釈により異なり明瞭ではないが、おそらく、この2,3里はおおよその距離で、1~1.5キロメートル程度と思われる。また「山頭よりるいるいと出で、せんせんと海口に至る」とあるので、山と海の間が近距離でかなり高低差がある地形であり、源泉が山際から湧出して、その余流が海に注いでいると解釈できるが、温泉が流れ出て注ぐような海岸線は道後温泉付近には存在していない。

 それは当然のことで、これまで述べたように、道後温泉と熟田津石湯は別の温泉であり、異なる場所に存在するものを、松山説では両者を同じ温泉だと思い込んでいるためである。

 そもそも熟田津と道後温泉の間には最初から何の関係もない。この両所を結びつけているものは先にも書いたように、越智玉積(玉澄)の存在だけである。したがって、熟田津の候補地と道後温泉の相関性をいくら探求しても徒労なのである。それよりもむしろ、その熟田津の候補地から2,3里の所に石湯の旧跡を探索したほうが、誰が考えても賢い選択といえるのではないだろうか。

  それでも、松山周辺では見つからないかも知れないが。

 

 

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(つづく)