鄙乃里

地域から見た日本古代史

飛梅伝説と太宰府天満宮


 ◇ 太宰府天満宮の参道 ◇

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  梅まつりの日でしょうか すごい人出です


 太宰府天満宮は昌泰(しょうたい)4年(901)に太宰権帥(だざいのごんのそち)として筑紫に左遷され、延喜3年(903)都をしのびながら、この地で没した菅原道真が祀られている神社で、飛梅伝説や学問の神様として知られています。

 道真公の居館は少し離れた榎社にありましたが、遺言によりこの地に葬られ祀られたそうです。

 

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天満宮の社号

 一方、京の都では、道真公が没した頃から次々と貴人の変死や災厄が続いたため、その原因が道真の怨霊によるものではないかと恐れられました。また道真の怨霊が雷神になったとも考えられたようです。そのため勅命により急遽、太宰府の廟に社殿が造られ、北野天満宮にもその霊が祀られて道真公は逆に国家守護の天神として崇められるようになりました。

 そのとき造られた太宰府の社殿が現在の太宰府天満宮になり、今日では学問の神様・天神様として親しまれ、年間を通して観梅や合格祈願の参拝者が絶えない福岡県の観光地になっています。

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よろづよにとしはきふともうめのはなたゆることなくさきわたるへし

筑前介佐氏子首(『万葉集』巻5-830)の歌碑

天平2年正月13日大宰帥大伴旅人の邸宅で行われた梅花の宴で詠まれた32首のうちの一首
このときの梅花の宴の序文から「令和」元号が採用されました


 道真の菅原氏の出自は土師氏を改めたもので、先祖は野見宿禰ですから、その遠祖は天穂日命ということになるようです。

 江戸時代にも、徳川家康の異父弟(母はどちらも於大の方)である松平定勝は旧姓が久松氏ですが、久松氏の本姓は菅原氏で、定勝は菅原道真の子孫だといっています。


 もう一つの飛び梅伝説

 ところで、道真公の愛梅に関する面白い伝説が、北九州市若松区極楽寺にもあるのをご存じでしょうか?  こちらも飛梅伝説というものです。
 
 周知のように菅原道真公自身による有名な「飛梅伝説」は別にあります。道真公が太宰府へ出立するときに家の梅の木に向かって東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と詠んだところ、その梅の木がのちに大宰府まで飛んで行き、その地に生えて馥郁たる香りを放ったという話です。現在の境内にも嘘か真か伝説の飛梅と称する梅の木がありますが…、この極楽寺の伝説は、それとは少し違っています。

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太宰府天満宮の梅

 若松の極楽寺は草創時は天台宗の寺でしたが、ほどなく浄土真宗に改め本願寺派に所属しているとのことで、境内の案内板にも標記の和歌が記されています。
 
 内容は、江戸時代前期に当寺の住職が太宰府天満宮へ観梅に行き、有名な飛梅に魅せられて「枝をぜひ分けてほしい」と懇願したがどうしても聞き入れてもらえなかった。落胆した住職だったが、その帰途の夢の中に菅原道真公が現れた。そして目覚めてみると、枕元に短冊と梅の枝が置かれていて、短冊には次のような歌が記されていた。


 折らるるも 折るもつれなし 梅の花


 文字数からいえば俳句ですが、伝説といっても道真公が俳句を残されるはずがありませんから、これは和歌の「上の句」だろうと推察されます。なので、下の句が切れたままで謎として残されているわけです。

 そこで住職はその梅の枝を持ってかえり挿し木をしておいたところ、やがて立派な梅の木に成長して、年々代々に、極楽寺で見事な花を咲かせていたそうです。

 ところが、明治時代になってから、寺が本堂再建のために梅を移動させたところ、なぜか、ほどなくして枯れてしまったというのです。

 そして極楽寺によると、その梅は紅白の花がまじり咲き、かつ八重咲きだったということです。

 この話から、みなさんは、どんな下の句を思い浮かべられるでしょうか?

 道真公はご住職の思いを汲んで梅は分けてくれたのですが、何を言いたかったのか 

な?


 これは面白い話なので、下の句を知るためにも、その話の意味を自分なりに次のように考えてみました。

・花に紅白が混じっているというのは、梅にとってみると、枝を請(こ)われたことは「ありがたくもあり、ありがたくもなし」という意味ではないだろうか。

・八重に咲いているのは、「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞかなしき」の歌にあるように、梅もふるさとを離れたのでは「花は咲いたとしても、実を結ぶことは出来ない」と嘆いているかもしれない(八重咲きの品種は全般に種や実が着きにくいもの)。

・当時の住職があれほど懇願し大切に育ててきた梅の木が明治になって枯れてしまったのは、梅が大事か?本堂(の場所)が大事か?の初心を忘れてしまった明治時代の合利(理ニアラズ)主義的思想に愛想を尽かしてしまったからで、今も枯れ木がそのまま残されているのは、その教訓を忘れないためである。

 そして、それらを総合すると、こんな歌になりました。

  折らるるも 折るもつれなし 梅の花 愛でし思ひを 旅のかたみに 

 道真公自身も、そうして太宰府へ旅立ったのです。

 こんな風に勝手に解釈してみたのですが…。「そんな独断的な解釈をしてもらっては困る」と、お寺さんからきついお叱りを受けそうです。

  

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ある日の 天満宮境内

 太宰府天満宮には梅だけでなく菖蒲池もあります。国宝『翰苑』の写しもあります(中国にはもうない)。もちろん、名物の梅ヶ枝餅もありますよ。




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