鄙乃里

地域から見た日本古代史

我が衣手は露に濡れつつ ~百人一首の真実~

 我が衣手は露に濡れつつ ~百人一首の真実~

   秋の田のかりほの庵の苫をあらみわがころも手は露にぬれつつ

  小倉百人一首は『後撰和歌集』に載る天智天皇の歌から始まっています。

 この歌は天智天皇が収穫期の農民の苦労を思いやって詠まれた歌ではないかと、一般にはいわれています。

 ただそれは、『万葉集』巻10に、

秋田刈る仮廬(かりいほ)を作りわが居れば衣手寒く露ぞ置きにける(巻10 2174 )

という「詠み人知らず」があって、これが「秋の田の」の元歌で「秋の田」は誰かの改作ではないかとする説もあるので、この歌を念頭に置いた上での感想ではないかと思われます。

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 しかし、そうした先入見をもたないで「秋の田」を味わってみると、必ずしもそうとばかりはいえないかもしれません。 たしかに言われてみると内容は酷似しているのですが、歌のトーンは全然違っているようです。

 そのことは「秋の田のかりほ」の意味をどのように解釈するのかによっても異なってきます。「かりほ」の個所は掛詞になっているといわれますが、巻10の歌を参考にした場合は「秋田刈る」ですから、どちらかといえば「刈り穂」の意味に取れるでしょう。しかし、「かりほ」が「仮廬(かりほ)」の意味になると、ちょっと違ってきます。「廬(いほ)」を二つ重ねることになり、「仮廬(かりほ)」が強調されることになります。

 そうすると、むしろ同じ巻10にある、 

秋田刈る旅の廬に時雨ふりわが袖ぬれぬ干す人なしに(巻10 2235)

の心境に近く、農民の立場というよりも、天智天皇自身の心境を綴った歌ではないかとも解釈できます。そのためか、一般には「刈り穂」と「仮廬」の掛詞として歌の調子を整えているように読解することで、鑑賞者のほうがうまく折り合いをつけているように思われます。

 天智天皇がまさかそのような庵にいるわけがないだろうと考えられるかもしれませんが、それは分かりません。いつ、どのような状況下で、この歌が詠まれたかはまったく仔細が不明なのですから。

 そこで、この歌がやはり天智天皇の御製であり、かつ自身を詠んだ歌であるとした場合には、どのような状況下で詠まれた可能性があるのでしょうか。

 この歌に関するひとつの伝承として、伊予西條藩の『西條誌』には、西条市古川の御所神社の項に次のような記事が見受けられます。

 ○御所明神祠(方一尺五寸)神主朔日市村   高橋備中
此祠、前に見へたる水越の下の堤の外にあり、古木茂り、鼬鼡(いたち)棲み、鴟梟(しきょう)夕へに鳴き、妖貍(ようり)昼顕はるゝの地と荒れ果たれ共、其古ヘを尋れは、天子駐蹕(ちゅうひつ)の地とは申し伝へたり、 斉明天皇(三十八代)當國の熱田津に至り玉ふと云事、日本紀に見へたり、熱田は、今の西田也といふ事、保國寺の縁起に見ゆ、皇嗣は、天智天皇也、此處にて斉明の諒闇(りょうあん)に居玉ひて、所謂秋の田の御詠ありしといふ事も、亦保國寺の縁起に見へたり、此縁起も、牽合の説あるべけれは、信じ取るとにはあらざれ共、土人昔より申伝る旨とも合ひ、又御所といふ号も、故ヘある事と思はるれは、其説を表し出す也、 此祠の近きあたりの田地の字なに、局といふ処もあり、かりの皇居にも、此等の御構ヘありしにや、古川、今の在所并土塲の在所共、此祠を臍緒神と崇め、重陽を祭日とす、天智を祀歟、斉明を祭るにはあらじ、

とあり、文中の「諒闇(りょうあん)」とは天皇が服する喪のことで、その喪中に居住する小屋の意味もあります。

 いかにも当地で天智天皇が「秋の田」の歌を詠まれたかのように『保国寺縁起』は書いているのですが、この歌の伝承は筑前朝倉にもあり、天智天皇が木の丸殿で喪に服したという惠蘇八幡宮の近くにも本歌の石碑があるそうです。つまり、各地に散在する伝承の一つに過ぎないわけで、実際にはどこの話だか分かりません。先述のとおり「後世の改作か」とも言われるぐらいの歌なので、石碑など後からいくらでも建てられるでしょう。しかし、ここで大事なことは、諒闇の際には天智天皇が粗末な小屋にいたということなのです。

 「諒闇」については、辞書に次のような意味も書かれています。

「諒」はまこと、「闇」は謹慎の意。一説に「梁闇」の二字と同じで、むねとする木に草をかけたもので、喪中に住む小屋の意。


 なぜ『保国寺縁起』がこの地を諒闇の場所としているかというと、斉明天皇の喪を明日香へ運んで帰る途中に、あるところに立ち寄って歌を詠んだことが『日本書紀』に書かれているからだと思います。

    きみがめの   こほしきからに   はててゐて   かくやこひむも   きみがめをほり

 つまり、これが古川の御所神社の場所だと言っているのだと思います。[秋の田」の歌は、ついでに書いただけでしょう。この愛慕の場所としては、ほかに今治市大三島ではないかという説もあります。しかし、斉明天皇は西田の熟田津にいましたから、中大兄皇子の行宮はその続きの古川にあったのかもしれないし、そのため、斉明天皇を偲んで、帰途にもこの地に立ち寄った可能性は十分考えられると思います。その天皇の居所跡を御所神社として今に祀っているのかもしれません。

 古川の御所神社の祭神は天命開別天皇(あめみことひらかすわけすめらみこと)、つまり天智天皇で、御所神社の由緒は簡単ですが次のように記されています。 

熟田津の地ともいわれている。古川乙松原にあったが昭和41年河川改修にて古川寅巳に仮移転、古川中条に奉還する。

 もとは加茂川の左岸にあった御所神社を、堤防工事のため一時、対岸の地に仮移転したのち現在地に遷したと記しています。『西條誌』に載る御所神社は当然ながら加茂川左岸時代のものです。

 ほかにも(詳細は省略しますが)、西条市早川にある御陵神社は、天智天皇の陵墓だという不思議な言い伝えが大生院地区にあるのです。
 まったく、歴史は何があったか分かりません。
 
 つまり、ここで言いたいことは、天皇といえども人である以上、旅先においては苫屋に露と伏すこともあれば、公には出せない虚しさや悲哀も感じているということです。 

 歴史の現実とは分からないものです。

   秋の田のかりほの庵の苫をあらみわがころも手は露にぬれつつ

 この歌が天智天皇の御製でないとは、必ずしもいいきれないかもしれません。たとえ改作だとしても、天智天皇の心境を赤裸に表現した歌でないとは誰にも言えないでしょう。  だからこそ、百人一首の中に入っているのかもしれません。


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