鄙乃里

地域から見た日本古代史

「NHKスペシャル古代史ミステリー」を見ましたか?

 先日「NHKスペシャル」で古代史特番が2週にわたり放映されていて、ご覧になった方も多いと思います。「邪馬台国」と「倭の五王」に関する話で、なかなか興味深いテーマでしたので、今回は視聴後の感想を簡略ながら書いてみました。


    

                                 
 邪馬台国と女王卑弥呼

 1週目は邪馬台国卑弥呼の話でした。
 『魏志倭人伝』の卑弥呼の貢献が、魏と呉の覇権争いの中でグローバルに展開され、卑弥呼が国内統治のために絶妙のタイミングでそれを利用したとの学者の話も紹介されていました。

 卑弥呼が魏の威光を国内統治に利用したことは確かでしょうし、魏にとっても倭国との友好関係が郡支配のために有益だったのは間違いないでしょう。ただ、そのこと自体はとくに新しい知見ではなく、倭の朝貢外交も、卑弥呼の手腕以前に、公孫氏の時代から帯方郡に貢献していた慣例が、半島情勢の変化により魏に変更されただけとの見解も可能かと思います。

 卑弥呼金印が授与されたのも、倭の使者が帯方郡だけに留まらず海山を越えてはるばる洛陽まで朝貢したことを、魏とのよしみを求める真心の証と評価されたからこそ与えられたもので、「親魏倭王」とは、正にそのような意味に受け取れる言葉です。外交上で魏が倭国をどこまで東夷の大国と見なして優遇したかまでは不明であり、想像の域を出ないでしょう。ただ「倭人条」の記事からは、倭国にかなりの関心を持っていたとは言えると思います。ちなみに卑弥呼が最初に貢献した景初3年(239)は『日本書紀』で明帝の元号になっていますが、皇帝は明帝ではありません。


 女王国と邪馬台国

 この番組で残念なのは『魏志倭人伝』の女王国と邪馬台国を、今もって同じ国(場所)だと信じ込んでいる点でしょうか。

 女王国は、奴国や不彌国の南の、北部九州の広範囲に散在する集落の集合体(吉野ヶ里・久留米・田川あたり)ではないかと推測するのですが、その女王が都としている邪馬台国とは場所がまったく異なっているのです。『魏志倭人伝』にも、邪馬台国へ行くには水行で30日、さらに陸行でひと月ほどかかると明記されているはず。その邪馬台国が、なぜ北部九州なのでしょうか?

  『魏志倭人伝』には「女王国」6度に対して、邪馬台国は⒈度きりしか出てきません。同じ場所なら書き分けたりする必要はないはずです。ただし、ここでの邪馬台国はあくまでも『魏志倭人伝』の邪馬台国の話ですから、それ以前に北部九州に邪馬台国が存在していたかどうかについては言及は控えます。ただ、『魏志倭人伝』の女王国と邪馬台国を同所のように思い込んで、いまだに九州説か畿内説かでもめている思考方法そのものがおかしいわけで、それだと、この問題は永久に未解決のままでしょう。

 奴国や不彌国の南に女王国が想定される理由は、帯方郡の使者らが実見した正しい方角と、帯方郡からの距離「万2千里」によるものです。また吉野ヶ里遺跡の環濠集落の様子が『魏志倭人伝』の卑弥呼の居所に似ているとの指摘もあります。
 しかし晋の時代に陳寿が撰述した際には、陳寿らは実際に倭国に足を運んでいませんから、たとえば南に伸びた列島地図を見ながら、投馬国や邪馬台国の方角を「南」と書いた可能性はあり得るでしょう。その証拠に、九州の国々の方角も間違っています。

 番組では九州説の吉野ヶ里の次に纏向遺跡に焦点を当てていましたが、それでも女王国と邪馬台国を同一視している点においては変わるところがありません。毛野国を出すなら、吉野ヶ里を出す必要はないでしょう。

  


 空白の世紀と倭の五王

 2週目は半島情勢と倭の五王に関する話です。
 富雄丸山古墳の発掘から始まって、鉄製の甲冑や、群馬から馬を調達した話などが学術的成果として説得力ある説明になっていました。その一方で、毛野国が狗奴国に確定しているかのような進行ぶりはいかがなものでしょうか? 

 「毛野国説」は国名が似ていることと、邪馬台国の南に狗奴国があるとの解釈からそう考えることはできますが、古墳の形が異なることと、両国が敵対していることは必ずしもイコールとはいえません。東日本に前方後円墳が混在する時期についても、日本武尊や吉備武彦らの東征後のことではないのでしょうか?


 狗奴国はどちらかといえば南九州では?

 毛野国もたしかに候補地の一つにはなっていますが、狗奴国は、むしろ南九州のほうがふさわしいような感じもします。
 『魏志倭人伝』には「女王国から北は戸数や距離の概略を載せることができるが、その他の諸国は遠く離れていて詳細を知ることが出来ない」とあり、それらの国名がランダムに記されたあと、続いて「その南に狗奴国がある」と書かれています。「その南」の「その」が何を指すのかが問題なのですが、最初に女王国があり、直後にも「郡から女王国へは万二千里あまり」と続けています。したがって、この場合の「その」は文脈上、倭連合全体の境界域というよりは、女王国を指すとするのが自然ではないかと自分は考えます。少なくとも、邪馬台国ではありません。すると、女王国は九州なので、狗奴国も同じ九州でしょう。

 その(女王国の)南に「狗奴国があり男子を王とし、その官には狗古智卑狗がある」とあり、卑弥呼と狗奴国王の卑弥弓呼が攻撃し合っていたと書かれていますが、互いに攻め合うのは国同士が接していないとできない話です。番組のように女王国が邪馬台国纏向遺跡とした場合、毛野国との間には伊賀・尾張・美濃・越などの倭連合国が存在するため、互いに攻め合うのは地理的に不可能です。仮に相手が倭連合国全体だとした場合は、狗奴国一国では長期的に太刀打ちできないでしょう。それに、狗奴国は女王には属さず、卑弥弓呼と卑弥呼は不仲で相攻撃…とは書かれていても、狗奴国と倭国全体が攻め合っている話はどこにも書かれていないのです。


 呉軍の遠征

 次に、両者の不仲については魏と呉の覇権争いが反映されているともいわれており、それに関して呉の孫権が南九州に大軍を送ったが、それ以上は東に進めなかったので、孫権の怒りを買った将軍が処刑されたとの話があるようです。

 実際の『三国志孫権伝には西暦230年に「二人の将軍に兵1万を付けて夷洲と亶洲を求めさせた」とあり、夷洲までは行ったが、亶洲には行けなかったと記されています。
 通説では、その夷洲を台湾とし、亶洲は日本のどこかの島と考えられているようですが、私見では、夷洲は台湾ではなく、やはり九州ではなかったかと考えています。
 というのも『隋書』倭国伝に、裴世清らが秦王国に来たときに「そこの人は華夏に同じである、以て夷洲かと思うけれども、疑いは明らかにすることができなかった」とあり、九州の秦王国が夷洲のようにも思われていた事実があります。

  「夷洲」は単純に考えると「東夷の島」の略称のようにも解され、台湾なら、呉の会稽東冶から見ると東には当たらないので、夷洲とは呼ばないでしょう。また、亶洲が日本列島(本州か)を意味することは徐福の話が挿入されていることから明らかで、台湾とは遠征する方向が反対です。

 したがって、呉軍は南九州までは来たが、それから北や東の倭連合の国には進めなかったのではないか?と推測することは可能でしょう。しかも引率した軍兵のほとんどを疫病で失って、やむを得ず引き返したため、将軍が責任を問われて投獄された。そのときに、かなりの数の呉人が現地に残留したともいわれていて、国内(熊本県兵庫県山梨県など)から呉鏡が発見されたりするのは、その話と何らかの関連性があるのかもしれない? もちろん鏡に関しては、公孫氏経由の可能性も皆無とはいえないでしょうが…。

 
 熊襲と狗古智卑狗

 そのほかにも『魏志倭人伝』に登場する狗古智卑狗という官名が熊本県北部の「菊池市」と似ているとする説もあったりして、これらのことから総合的に推測すると、南九州説のほうが、むしろ分があるのではないかと思えます。熊襲は後代まで倭王権に反抗していますし。いずれにしても、現時点で毛野国が狗奴国に確定しているかのような番組進行には驚かされました。

  


 倭の五王の比定に疑問あり

 それから、番組では堺市の大仙陵をたしか「倭王珍」の陵とか言っていたような…?  
それなら大方の説では「珍」は反正天皇なので、大仙陵は反正天皇の陵になりますが、そんな有力説が存在するのでしょうか、あまり聞いたことがありません。それとも「珍」が仁徳天皇だというなら、その兄の「讃」とは誰でしょう? 応神天皇は親で、兄ではない。にもかかわらず、放送では「讃」を応神天皇と勝手に決めてしまっていたようです。しかし
それは現時点での科学的・学術的知見だけを短絡的に解釈した結果に過ぎないので、その時々で文献とのつじつまが合わなくなり、意味不明といえるでしょう。

 たぶん、応神天皇を「倭王讃」とするから話がおかしくなるのではないでしょうか。倭の五王(六王)は「讃」から始まり、仁徳から雄略までで、応神天皇は関係ありません。百済から倭王に七支刀が贈られた時代には、高句麗の広開土王はまだ即位さえしていないのですから

    

 

 NHKにしてはずいぶん大胆な歴史を適当に放映するものだと思いながら鑑賞していましたが、テーマ自体はたいへん面白かったし、もっといろいろな研究者の意見を聞いてみたかったです

 また次の機会をたのしみにしております。