鄙乃里

地域から見た日本古代史

『源氏物語』と伊予の湯桁

 源氏物語』と伊予の湯桁

  「伊予の湯桁」(いよのゆげた)とは数が多いことの例えで使われている言葉ですが、地方のみならず京(みやこ)においても、ずいぶん昔から流布していた流行語のように思われます。

 紫式部の『源氏物語』にも「伊予の湯桁」の話が二度ばかり登場します。
 最初は「空蝉」の巻で、伊予介の妻の空蝉(うつせみ)と、先妻の娘の軒端荻(のきばのおぎ)が碁を打っている場面に出てきます。

「待ちたまへや。そこは持にこそあらめ。このわたりの劫をこそ」など言へど、
「いで、このたびは負けにけり。隅のところ、いでいで」と指をかがめて、「十、二十、三十、四十」など数ふるさま、伊予の湯桁もたどたどしかるまじう見ゆ。

  碁を打ち終わった軒端荻がマス目を数える様がいかにも手際がいいので、あの数が多いという「伊予の湯桁でも簡単に数えられそうに見える」と、光源氏が感心している場面です。

 「伊予の湯桁」については「伊予の湯の湯桁はいくつ・・・」といった俗謡があり、当時から数が多いことの例えで用いられてきたようです。それで、光源氏紫式部)もこのような表現を使っているのでしょうが、実は、ここでいう「湯桁」が実際にどのような形状のものかは明瞭ではありません。温泉の湯池の上に渡した板のようなものなのか、浴槽の仕切板のようなものなのか、あるいは浴槽そのものかなどは…よく知られていません。

 ただ、この場面から想像できるのは、光源氏の思い描く湯桁のイメージが碁盤のマス目のようなものではなかったかということです。それは、囲碁の勝敗は獲得した石の数で決まるのではなく、その碁石を盤に並べて残った陣地のマス目(地)の多少で勝敗を決するものだからです。したがって光源氏は、ただ数の多さからだけではなく、もしかしたら、このマス目の形からも「伊予の湯桁」を連想していたのかな?と、思ったりもします。

f:id:verdawings:20200219221144g:plain


                                                                       

 次は「夕顔」の巻で、空蝉の夫で軒端荻の父親の伊予介が伊予国から上京し、そのまま光源氏に挨拶に来た場面です。

 まづ急ぎ参れり。舟路のしわざとて、すこし黒みやつれたる旅姿、いとふつつかに心づきなし。されど、人もいやしからぬ筋に、容貌などねびたれど、きよげにて、ただならず、気色よしづきてなどぞありける。
 国の物語など申すに、「湯桁はいくつ」と、問はまほしく思せど、あいなくまばゆくて、御心のうちに思し出づることも、さまざまなり。

 光源氏伊予国から帰ったばかりの伊予介に「伊予の湯桁はいくつあるのか?」と聞いてみたかったのですが、伊予介が空蝉の婿であり、軒端荻の父親であることから、先般の房事などをいろいろ思い出して正視ができず、聞かなかったというくだりです。

 ここに登場する「伊予介」はたぶん人名というよりも、伊予国の副官というほどの意味ではないでしょうか。ともあれ当時から、このような俗謡が京にも知れ渡っていたことが察せられます。この『源氏物語』の「伊予の湯」が何温泉を指しているのか、ここでは説明されていませんが、この時代なら道後温泉であったのかもしれません。というよりも、まず道後温泉と考えていいでしょう。

 しかし、たとえ光源氏が、ここで伊予介に「伊予の湯桁」の数を尋ねていたとしても、おそらく伊予介のほうでは俗謡以外の内容は何も教えることができなかったでしょう。なぜなら、当時の「伊予の湯」が道後温泉だったとしても、この「伊予の湯桁」の俗謡は、道後温泉の話ではないからです。

 この俗謡にある湯桁は、伊予の史料によると古代「伊豫の湯」である熟田津石湯の話になっているのです。ですから、たとえ光源氏自身が道後温泉へ出向いていって直接「伊予の湯桁」を数えようと試みたとしても、それはどだい無理な話だったというわけです。それとも源氏は、湯桁の話に例えて、軒端荻の歳でも聞いてみようとしたのでしょうか?

 それはさておき、熟田津石湯の話とはいっても、この「伊予の湯桁」は、古代の天皇らが行幸した当時の「伊豫の湯」の話ではなくて、白鳳地震以後に再工事されたときの逸話だったようです。『伊豫温故録』に載る「豫州温泉古事記」には、次のことが書かれています。

 白鳳地震で壊没した「伊豫の湯」は、持統天皇の御代に伊豫国司の田中法麻呂(たなかののりまろ)が湯池を造ったが、温泉が濁っていた。そのため文武天皇2年に再び、伊豫の国守・小千玉興(おちたまおき)が大和葛城郡から役小角を迎えて温泉を改造したとき、その温泉脈路の下に役行者樋を設置した。これが湯桁と何らかの関係があるようで、そこに役行者の詠歌とし「伊豫の湯の湯桁はいくつ 左八つ 右は九つ 中は十六」と書かれていて、つまり「伊予の湯桁」の数は合計33だとあります。後世の史料には539などと途方もない数字を書いたものもありますが、古代の温泉にそんなドームのような広い場所はありません。伝承に尾ひれがついただけでしょう。

 この役行者の話は単なる伝説のように見えますが、そうとも言えません。「豫州温泉古事記」の内容には具体性がありますし、四国の石鎚山役行者の開山と伝えられているからです。摂津の三島鴨神社の記事でも書いたように、役小角流罪が決まったのは文武3年でしたが、この工事は文武2年とあります。つまり、越智玉興と役小角はこの時以前からすでに親交があったと考えると、小角をかばって同罪にされたという『予章記』の玉興の行動もよく理解されるように思います。

 ですから、少なくともこの史料からいうと「伊予の湯桁」は熟田津石湯と役行者の話なのです。その話を知らない人は、上記の『源氏物語』の「湯桁」も道後温泉の話だと信じているかもしれませんが、道後温泉に関わる「湯桁」の史料や話は、どこにも存在しません。松山では道後温泉を古代「伊豫の湯」つまり熟田津石湯と混同して勘違いしているため、道後温泉の歴史に「湯桁」の話を取り込んで宣伝しているだけなのです。

 何事も出発点を誤ると後々までいろんな問題が派生してきますが、それにすら気付かないとすれば、ある意味、それが史の怖さと言えるのかもしれませんね。
 さて紫式部は、チコちゃんのように…何でも気付いていたのかな?

 

f:id:verdawings:20200219231209j:plain