鄙乃里

地域から見た日本古代史

古代「伊豫の湯」は道後温泉? まとめ

 古代「伊豫の湯」は道後温泉? まとめ

1.斉明天皇百済救援のため西征時に逗留した伊予の熟田津は、松山市でなく愛媛県
  西条市である。

2.したがって熟田津の石湯、つまり古代「伊豫の湯」も「行宮」も当然、西条市であ
  る。

3.古代「伊豫の湯」を道後温泉と書いた書物は、奈良時代以前のものには一冊もな
  い。『伊豫国風土記逸文の「湯郡」の一語に頼るだけの道後温泉説は単なる想像
  に過ぎない。

4.『伊豫国風土記逸文の「湯郡」に載るスクナヒコナの伝説は、『風土記』特有
  の地名説話と考えられる。道後温泉の起源譚にはそのほかに「白鷺伝説」もあ
  り、同じ温泉に誕生説話が二つもあるのは自己矛盾である。

5.道後温泉の実際の誕生説話は「白鷺伝説」である。そのため現在も白鷺が道後温
  泉のシンボルになっていて、本館の振鷺閣(しんろかく)の上にも羽を広げてい
  る。この白鷺は本来は伊予の豪族・越智(河野)氏のシンボルだが、越智氏が道
  後温泉を開発したので道後温泉のシンボルにもなっているわけである。そのため 
  河野氏は温泉の傍らに湯築城を築造している。『伊豫温故録』の「豫州温泉古事
  記」によると、鷺の湯(道後温泉)の発見は746年になる。

6.道後温泉を古くは「熟田津石湯」と称したという伝承は、実情を知らないための
  誤解である。江戸時代の地誌にもそんな記事があるが、古代「伊豫の湯」が白鳳
  時
代に壊没したあと天平地震で消滅したために、その後の道後温泉と勘違い
  れたものか、あるいは越智氏(おちし)により転用されたと思われ、実際の熟田
  津石湯は
西条市にある。明治時代の松山市の宮脇通赫著『伊豫温故録』にも「熟
  田津の真の地は新居郡(西条市)西田村なり」と書かれているはず。

7.山部赤人の万葉歌からは、古代「伊豫の湯」が石鎚山頂を間近に仰げる土地に存
  在しなければならないのは当然である。

8.斉明天皇が征西時にしばらく逗留したのは『日本書紀』にある熟田津の石湯行宮
  だが、その行宮は松山市周辺ではなく、西条市の橘新宮神(たちばなしんぐうじ
  んじゃ)旧跡の地である。江戸時代の地誌『予陽郡郷俚諺集』の立花の話は、新
  居郡の橘の里の勘違いである。

9.射狭庭岡(いさにわのおか)は、名称だけから考えると西条市の伊曽乃(いその)
  神社の岡が相応しいと思われる。伊曽乃は昔は磯野と書いていた。「庭」は
「野」
  の意味とも解釈されるし、西条市洲之内(すのうち)の「石湯の岡」の傍らにあ
  る。それに、鳥居前から石鎚山の山頂が仰げる格好の遙拝地なのである。

10.赤人の歌「島山の宜しき国」の「島山」は、伊豫名所歌にも詠まれている西条の景
  勝地である。新居郡6郷のうちに島山郷があり、江戸時代には小松藩と西條藩の
  領地の関係で上島山村と下島山村に別れていた。上島山村の地名は現在の西条市
  飯岡(いいおか)になったが、下島山の地名は今も市内にそのまま残っている。
  飯積神社(いいづみじんじゃ)がある地区だ。その一帯の丘陵地は古代には潮が
  登る島山で、仲哀天皇神功皇后の伝承が残されている。飯積神社の祭神はこの
  二柱と十城別王ほか二柱である。

11.熟田津村は天文2年(1533)の高潮で村の海側が水没し、続いて天正・文禄(慶
  長元年、1596)の地震
洪水により壊滅したため熟田津には人が住めなくなり、
  石湯行宮の神跡(橘神宮神社旧跡)も消滅した。それ以後、熟田津村の村名も絶
  えたという。その跡地は江戸初期の干拓で再び田畑(でんばた)になり、一柳西
  條藩改易のときに西田と称された。しかし、昔を偲ぶ行宮の跡地には現在も目印
  として一樹が植えられている。その地は以前の地図では西田であるが、今は隣の
  安知生(あんじゅう)新開に入るようである。安知生には石湯八幡宮の旧跡もあ
  り、かつての神功皇后の行宮跡と伝えられ、その前に昔は、橘天王(斉明天皇
  や橘の里の名称の起源といわれる橘の木が立っていたという。

12.額田王の熟田津の歌は高揚感が感じられるが、今から出征しようという歌ではな
  い。単に熟田津から出立しようという意味のようである。筑紫にも行かないうち
  から
鬨の声を挙げてみても仕方がない。

13.山部赤人の万葉歌にある伊予の高嶺は石鎚山である。赤人自身が直接目のあたり
  にしているのであって、単なる頭の中のイメージではない。石鎚山頂が遙拝でき
  ない場所に伊狭庭の岡はない。島山がない土地に湯の岡がないのと同じことであ
  る。

14.松山市には斉明天皇の伝承もなく、天智天皇を祀る神社もない。温泉の地形や熟
  田津との距離も、伊予の古記・古伝承とは一致しない。

15.西条市の橘新宮神社には天子・春宮(とうぐう)を含む3体の木神像と、それに
  供奉する32体(現在は24体)の随神像(公卿神像)があり、そのうちの1体の内
  部から「熟田津村」の墨書が発見されている。また天智天皇を祭神とする神社も
  市内に2個所ある。

16.橘新宮神社の『旧故口伝略記』には橘岡が書かれてあり、以前は石湯の岡と称し
  ていた。その北麓に石湯八幡宮旧跡があり、その地は神功皇后の行宮跡だと伝え
  ている。先に書いた武内宿禰の橘の木があった。

17.明治時代の地誌『伊豫温故録』掲載の「豫州温泉古事記」には、745年の天平
  震で東南の崖が崩れて熟田の石湯が埋没したこと、そして、その明年の暮れに越
  智玉純が鷺の湯(道後温泉)を発見し、行基菩薩とともに温泉を開発したことが
  書かれている。湯釜薬師もその頃に造ったものと考えられる。そのため、道後温
  泉の旧名を熟田津石湯だと勘違いしているのである。

18.しかし、その熟田津石湯は松山市ではなく西条市に存在して、その名残に今も湯
  之谷温泉があるのだが、石湯が奈良時代に完全に埋没・荒廃したために歴史の闇に
  埋もれてしまい、代わりに伊予国では道後温泉が有名になったため、道後温泉
  天皇らの古代「伊豫の湯」と間違われてしまったというわけである。また道後温
  泉も奈良時代からの古い温泉であることには間違いない。3,000年の歴史はない
  が…。


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