鄙乃里

地域から見た日本古代史

2019-05-01から1ヶ月間の記事一覧

11.倭奴国と倭(やまと)(1)

11.倭奴国と倭(やまと)(1) つまり、この21カ国のうちの「奴国」の旧名が「倭奴国」なのではないかと思う。 『旧唐書』に「倭國者、古倭奴國也」=倭国は古(もと)倭奴国なり=の記述がある。 『旧唐書』の日本関係の記事は「倭国」の条と「日本」の条…

10.金印は九州奴国王のものではない(3)

10.志賀島の金印は九州の奴国王のものではない(3) 『後漢書』倭伝には、倭の使者に関して次の記事がある。 建武中元二年(57年)、倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界 也。光武賜以印綬。安帝永初元年(107年)、倭國王師升等献生口百六十人、願請見…

9.金印は九州奴国王のものではない(2)

9.志賀島の金印は九州奴国王のものではない(2) 金印については「漢委奴国」を伊都国と読む説もあるが、『漢書地理志』にも「樂浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす」とあるように、中国には古くから東夷における「倭」の概念があり、「倭」を抜きにし…

8.金印は九州奴国王のものではない(1)

8.志賀島の金印は九州奴国王のものではない(1) 『魏志倭人伝』には末廬国・伊都国の次に奴国が書かれている。戸数は2万余戸。そして、江戸時代天明年間に発見されたと伝えられる「漢委奴国王」の金印が志賀島から出ている。したがって金印が本物で弥生…

7.その余の旁国ってどこのこと?

7.『魏志倭人伝』の、その余の旁国ってどこのこと? 『魏志倭人伝』には帯方郡から邪馬台国までの順路にある国々と狗奴国のほかに、その余の旁国21カ国というのがある。その余の旁国は、それらの順路から外れたところにある国々のことで、遠く離れていて詳…

6.卑弥呼の朝貢は景初何年?

6.卑弥呼が最初に朝貢したのは景初何年だっけ? 百衲本(ひゃくのうぼん)の『魏志倭人伝』では、最初の魏への朝貢を「景初2年6月」と書いているが、これは版の誤りと思われる。 『日本書紀』の引用文には「魏志云 明帝景初三年六月 倭女王遣大夫難斗米…

5.女王国は、邪馬台国だけ?(2)

5.『魏志』の「女王国」は、ほんとうに邪馬台国だけなのか?(2) 女王国は邪馬台国だけなのか? 女王国が邪馬台国だけだとしたら、「女王国の東へ海を渡ること千余里にまた国があってみな倭種である」とは、どの国を指すのだろうか。九州なら中国地方や…

4.女王国は、邪馬台国だけ?(1)

4.『魏志』の「女王国」は、ほんとうに邪馬台国だけなのか?(1) 『魏志』によると帯方郡から女王国までが1万2千余里。末廬国までがちょうど1万里なので、距離だけから考えると女王国は北部九州あたりに想定される。そして、その女王の都があるところ…

3.邪馬台国までの行程と方角はどう考える?

3.邪馬台国までの行程と方角はどう考える? 伊都国あたりから邪馬台国へ至る行程は、途中の投馬国(出雲国か)まで船で20日かかる。かかるといっても、日数と距離は比例しないかもしれない。昼間だけ航行して、雨や嵐が来れば海岸で休むし、天気がよければ…

2.『魏志倭人伝』の距離はどうなってる?

2.『魏志倭人伝』の距離はどうなってる? 帯方郡から倭の対北岸の狗邪韓国までの7千里は遠いが、狗邪韓国から対馬までが千里なら、たしかにその7倍ぐらいにはなるだろう。 『魏志』の計算が正しいとすると、女王国までは1万2千余里だから、距離だけから…

1.魏の使者は邪馬台国まで何度来た?  

『魏志倭人伝』の話 古代日本の姿を紹介した記事のうち「記紀」よりも古くて最も詳しい文献は『魏志倭人伝』なので、やはり最初は共通の史料である『魏志倭人伝』の話にしたいと思います。 『魏志倭人伝』については、これまで多数の人が様々な意見を発表さ…

地域から見た日本古代史(序)

はじめに 日本古代史の理解は、まず中央の史料など、誰もが入手可能な共通の歴史資料を基礎にすることが必要です。それは地域との連携のためにも大切な条件です。しかしそれだけでは個々の事実に関する具体的な情報が不十分であり、研究者の想像に依存する割…