鄙乃里

地域から見た日本古代史

6.卑弥呼の朝貢は景初何年?

 6.卑弥呼が最初に朝貢したのは景初何年だっけ?

 百衲本(ひゃくのうぼん)の『魏志倭人伝』では、最初の魏への朝貢を「景初2年6月」と書いているが、これは版の誤りと思われる
 日本書紀』の引用文には「魏志云 明帝景初三年六月 倭女王遣大夫難斗米等詣郡 求詣天子朝献」とあり、『梁書』にも「景初三年 公孫淵誅後 卑弥呼始遣使朝貢」と記されているし、また、これまでに発見された三角縁神獣鏡にも、景初2年銘のものは見つかっていない。
 もちろんそんな史料がなくても、明くる正始元年(240)に詔書印綬、賜物が卑弥呼に届いているのだから、景初2年でないことは明らかである。

 とくに古い解説本などに多いが、そのとき卑弥呼詔書を出した魏の皇帝を「明帝」と表記している例もけっこう見かける。『日本書紀』にもあるとおり、景初3年はたしかに明帝の年号ではあるが、明帝はその1月に亡くなっていて、事実上の皇帝は違う。
 遼東太守の公孫淵が魏の大将軍司馬懿に滅ぼされた翌年の景初3年6月に、卑弥呼朝鮮半島にある魏の帯方郡へ最初の遣使を送った。そこで帯方郡太守劉夏は役人に命じて、倭の遣使難升米らを魏の都・洛陽まで送っていかせた。おそらく都へ到着したのは、その秋から冬のことではないだろうか。その年の12月に皇帝から倭女王への詔書が出て、金印・紫綬はじめ多数の賜物が卑弥呼に贈られている。
  ただし、それが卑弥呼のもとに届いたのは明くる正始元年のことである。国内で出土した三角縁神獣鏡には正始元年銘のものが含まれているので、難升米らが洛陽を出発したのは正始元年の初め頃かと推察される。その間に鏡を好む卑弥呼のためにとくに銅鏡100枚が制作されたと考えられるため、中国から三角縁神獣鏡が発見されていなくても不思議ではないと思う。ただし、最近になって発見されたとの報もある。
 詔書を出したといっても、そのときの皇帝は8歳の少帝なので、実際は側近が承認を得て作ったものだろう。はるばる海山を越えて遠国から遣使を使わしたことを不憫に思ったのだろうか、それが何よりも魏に誼(よしみ、親しみ)を持とうとする真心だと感じて「倭王」の金印・紫綬を倭女王に与えたのである。そして使者に対しても苦労をねぎらい、銀印・青綬を与えている。

 卑弥呼に対しては五尺刀二口も贈っているから、これらが古墳から出土すれば、それぞれの墓の可能性があるだろう。そのほかにも銅鏡100枚をはじめ、絹・織物など多数の贈り物を与えている。そして、これらを国中の人に見せて、魏の国が汝を慈しんでいることを知らせなさいと、言っている。

 このとき卑弥呼が皇帝に贈った貢ぎ物とものといえば、生口(奴婢)10人は別にしても、斑(まだら)織りの布二匹二丈だけである。それに対してこれだけの賜物を与えるということは、倭を大国と思っていたか、または、よほど感じるところがあったのだろう。

 

f:id:verdawings:20190523225549j:plain

(つづく)