鄙乃里

地域から見た日本古代史

「いでな」か?「こな」か? ~熟田津の歌~

「いでな」か?「こな」か? ~熟田津の歌~

 『万葉集』(巻1、8)に額田王の有名な歌があります。

熟田津に船乗せむと月待てば潮もかなひぬ今は榜ぎ出でな

               (武田祐吉校註 角川文庫)

 高校の古文にも出てくるので、よくご存じかと思います。
 
 では、これは何と読むのでしょうか?

熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

   万葉仮名に慣れてる人は、そのまま読めばいいので簡単です。これは歌の原文なので、上に書いたとおりになります。

 問題は最終句です。「今者許藝乞菜」これをどう読むか、つまりは「乞」をどう読むかという問題になります。普通は「こぎ出でな」と読んでいます。それで別に不都合はなさそうに思われます。
 ただ、それは現在、普及している読み方がそうだということで、最初から本当にそうだったかどうかは分かりません。

 たしかに「乞」を「いで」と読んだ用例も『万葉集』などに、わずかですが認められるようです。しかし、普通は読まないでしょう。辞書にも「コツ」とか「キツ」とかしか書かれていないと思います。訓読の場合は「こ(う)」になります。

 ほかにも、この個所を「いで」と読むと少し問題があります。
 「今者許藝乞菜」の部分が字余りになる点です。もちろん字余りの短歌もあるので、それが駄目だというわけではないのですが、三十一文字のルールからは外れています。

 そのため当初は、この漢字の読みや歌のリズムに少なからず違和感を感じたことがありました。これは「こ」ではないのか、「こ」としか読めないが…。「いで」などと特殊な読み方があるのだろうか? と疑問に感じられたのも確かです。それでも、単なる知識不足のせいだろうと思っただけで、それ以上の詮索などはしませんでした。もちろん、今では慣れてしまったので、「いで」と読んでも、とくに不思議な感じはしていないのですが。

 ところが図書館などで古い郷土史料に目を通していると、「乞」の個所に「こ」と仮名を振った文書によく行き当たるのです。いろいろありますが、例えば半井梧庵の『愛媛面影』という明治2年刊行の地誌などにも、そう書かれていました。

 それで、やはり「こ」だったのかなという疑問もまた湧いてきたのです。
 そこで、この件について少しググってみると、どうやら江戸時代に「こぎ出でな」と提唱された説がそのまま今日まで続いているらしく、ほかに「こぎでな」との説もありますが、それら以前には、どうも「こぎこな」と解釈されていたような趣があります。

 それなら、なぜそれが「いで」になったのか?
 その点を推測してみるに、この歌の上句に「船乗せむと」とか「潮もかなひぬ」などという意思や状況を示す言葉があるため、すぐにも船を「漕ぎ出す」はずとの先入観が当時の学者の間に定着していたのかもしれない。そこから「こぎ出でな」という読みが新たに導き出されてきたのではないか。そんな風にも受け取れるようです。

 一方で、前記史料のとおり「こぎこな」と素直に読んでみると、「乞」を「こ」と読むのは誰にでも読めますし、動詞が一字一音の万葉仮名になって統一され、しかも結句が七文字になるため韻も踏んでいます。すべてが自然な作風に戻れるのです。

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 では、その場合の「こぎこな」は、どんな意味になる? 「こぎ来な」と考えたらいいのでしょうか? だとすれば、現在の読みとは正反対の行為を促す言葉になりますね。

 次に、この解釈をそのまま歌に当てはめた場合「こぎ来な」は、実際にはどのような状況を想定してみるべきでしょうか。

 想像できることの一つとして、熟田津が遠浅の海岸線だったことが挙げられます。そのような遠浅の入江では、干潮時になると、大きな船は狭い湾奥まで入って来られないかもしれません。そのため、少し水深のある場所に本船を係留しておく必要があるでしょう。湾内には川が流れ込んでいるので完全に干上がることはありませんが、それでも干潮時には水深が浅くなりますから、船に重量がかかると船底を擦らないという保証はありません。そのような河口は汽水域といって、よく見かけられます。
 ほんのひと昔前まで、埠頭(ふとう)のない海岸では本船は沖のほうに停泊していて、その間を艀(はしけ)という小舟に乗って本船まで渡ってから乗船したものです。
 古代の船はそんなに大きくないかもしれませんが、それでも天皇の用船ですから、同じ湾内でも水深のある沖側の海岸に停泊していた可能性はあり得るでしょう。

 その場合、この歌の意味は「熟田津で、船に乗って出発しようと月夜を待っていたら、ちょうど潮の満ち加減もよくなってきました。さあ、船をこちらへ漕いで来なさいよ」というような意味になるのではないか。…そういう解釈も可能と考えられます。天皇らが乗船して、いざ漕ぎ出すのはそれから先の話になります。つまり作者は、この歌の語感から我々が受け止めている勇壮なイメージよりも、もっと平静な気持ちでこの歌を詠んでいるのではないかということです。

 ただ、それでは歌として、あまりにもあっさりしすぎて、まったく面白みに欠けるため、もはや秀歌とはいえなくなるのかもしれません。現在の読み方のほうが高揚感にあふれているから読者にも評価されているわけで、鑑賞面では、現在のほうがずっと優れているように思われます。数ある万葉歌の中でも、その点が秀歌と評されている所以でしょう。 

 というわけで、実際にはどちらが本来の読み方なのか、自分には判断がつきかねるのですが、しかし、よく考えてみてください。まだ斉明天皇一行が筑紫の前線にも出向かないうちから、瀬戸内海のこんな海岸で、意気揚々とシュプレヒコールを合唱したとしても、何の意味があるでしょうか。それどころか、斉明天皇はその後に崩御されて、百済救援も挫折の憂き目に逢っているのです。

  『万葉集』の中の本歌の文学的価値は別にしても、残念ながら歴史上の事実とは、そうした単純な日々の積み重ねと苦労の連続ではなかったのだろうか…。自分の経験も踏まえて夢想する次第です。


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