
もっと見えるといいな…

もっと見えるといいな…
河野通有(こうのみちあり)は弘安の役(1281年の二度目の蒙古襲来)で活躍した鎌倉時代の伊予の武将です。
それに先立つ承久の乱(1221)において、河野一族でひとり鎌倉幕府に味方した河野通久の孫で、もとの名は通義といいました。承久の乱で幕府方に敗北した河野通信と河野一族は壊滅的な打撃を受けましたが、通有祖父の河野通久の活躍で久米郡石井郷(現松山市)の領有が認められ、かろうじて伊予に命脈を保ったのでした。

その後、文永11年(1274)に元のフビライ軍の来寇があり、九州勢を主体とした守備軍が苦戦の末に一度はこれを撃退しました。しかし、再度の来襲が予想されたため、鎌倉幕府は西国の守護たちに命じて筑紫の防御に当たらせていたのです。
その要請に応じるため、河野通有も、叔父の通時・長男の通忠らとともに、大三島の大山祇神社に詣でました。その際、神社の神前において覚悟の程を示すため、「十年のうちに蒙古寄せ来たらずば、異国に渡って合戦すべし!!」と書いた起請文を灰にして呑み込んだといわれます。現在も枯れて横たわった古楠が社殿の横にあり、それが「通有公の兜掛けの楠」として伝えられています。

幕府の予想通り弘安4年(1281)に蒙古・高麗の連合軍と江南軍の(通説によると)計14万の大船団が博多湾に押し寄せてきました。それに対し日本の将兵たちは、博多・筥崎沿岸一帯に築かれた防塁壁の後方に布陣し、元軍の上陸を阻止しようと待ち構えていました。そのとき、河野通有率いる河野の一族は、その築地の前方に陣を置いて一歩も引かない姿勢を示したので、これが「河野の後ろ築地」と呼ばれて評判になったそうです。

戦闘は、まず蒙古・高麗軍が壱岐を襲い、博多湾に進軍。そこで通有らは志賀島付近から二艘の小舟を出して敵方の軍船に近づけました。そして帆柱を倒して敵船に乗り込み、手当たり次第に元兵を討ち取ったあと、元軍の大将の一人を生け捕って引き返しました。
しかし、その際に通有自身も手傷を負い、また、合戦の傷がもとで、叔父の通時を帰路の船中で喪ったのでした。その後、元軍は閏7月1日に台風の暴風雨により大破・沈没するなど大損害を蒙り、3万人ほどの残兵になって引き上げたそうです。
終戦ののち通有は肥前国に恩賞を与えられ、没落していた河野の家名を再興したわけですが、翌年には叔父通時をはじめ弘安の役で戦死した敵味方の将兵を弔うため、居館を寺に変えて冥福を祈りました。それが西条市北条にある旧・海印山長福寺です。




その後も通有は幕府の命を受けて海賊の取り締まりに尽力した功績などにより、対馬守に任官されましたが、応長元年(1311)69歳で没したといわれています。長福寺の境内に通有公の墓と言われる宝篋印塔が残されています。
長福寺は江戸時代になって中興開山の南明禅師により臨済宗妙心寺派に属し、山号も東海山長福寺と改められたそうです。境内には春になると藤の花が見られます。


