詩人の高田敏子は大正3年(1914)生まれ。女性の生活に根ざした平易な詩を書いて広く読者の共感を得「台所詩人」「お母さん詩人」とも呼ばれた。
たしかに、台所で書かれたり、子供に向き合う母としての愛情から生まれた詩も多い。
しかし、初期にはモダニズムを追求した難解な詩も書いていたのである。当時はごく一般的な主婦で3女の母だったが、文芸誌『若草』に投稿した作品が連続入選し、村野四郎にも認められて『詩学』に掲載され、詩人になる道につながったようである。
高田敏子という詩人に関心を持ったのは、それほど古くはない。それまでにもちょっとした作品は読んでいたり、名前ぐらいは聞いていたと思うが、身近に知るようになった契機はご本人の講演を聴いたのが最初だったと思う。詩人には珍しく和服を着て講演をされていたが、小柄で可憐な感じの女性で、詩人という態度は微塵も見せない謙虚な感じの人だった。同時に、利発で芯の通った強い人という印象も受けた。
1966年に全国詩誌『野火』を創刊して主宰し、講座の講師を数多く務められていたから、全国に『野火』の女性会員も多く、講演は『野火』の地方組織や、各地の詩人団体からの依頼もあったと思う。
一方で詩人自身の作品や著作も多く、それらの詩業により「第一回武内俊子賞」「芸術祭奨励賞」「室生犀星賞」「現代詩女流賞」「ダイアモンドレディー賞」など、各種の賞を受賞されている。
作品の多くは主婦としての目線や日常の暮らしの中から生まれた詩で、平明な言葉が使われているが、一行一行はよく構成され洗練されていて、その詩のもつ感情が自然に伝わるように作られている、それが読者の感動と共感を呼ぶのだろう。自身が高田敏子になれるのである。しかし、そればかりではなく、彼女には自分の心を深く見つめた詩も多い。
よく知られている代表作の中から、2編を紹介してみたい。
布良海岸 高田敏子
この夏の一日
房総半島の突端 布良の海に泳いだ
それは人影のない岩鼻
沐浴のようなひとり泳ぎであったが
よせる波は
私の体を滑めらかに洗いほてらせていった
岩かげで水着をぬぎ体をふくと
私の夏は終っていた。
切り通しの道を帰りながら
ふとふりむいた岩鼻のあたりには
海女が四五人波しぶきをあびて立ち
私がひそかにぬけてきた夏の日が
その上にだけかがやいていた
この詩は、館山市布良海岸の能忍寺前に詩碑がすでに建立されているので、ここに掲載しても問題はないかと思う。
たった今、作者が通りぬけてきたひとときの青春と、いのちのかがやきを、やさしくいとおしんでいる、感動のある作品である。
次の詩も、東京書籍の国語教科書小5に掲載されてよく知られており、何人もの作曲家が曲をつけている。
水のこころ 高田敏子
水は つかめません
水は すくうのです
指をぴったりつけて
そおっと 大切に ――
水は つかめません
水は つつむのです
二つの手の中に
そおっと 大切に ――
水のこころ も
人のこころ も
詩句のリフレインはややもすると常套手段に堕するが、この場合、二連目の「そおっと 大切に ――」がとても効果的だと思う。
ほんとうはこれ以外にも「ぶどう畑」「すすきの原」「夕焼け」「別の名」「藤の花」「送り火」「堤の上」「母の手」「水仙」など、素晴らしい詩がいっぱいあるので、関心がある方は、ご本人の詩集で読まれることをおすすめしたい。著書は『月曜日の詩集』『藤』『夢の手』ほか、随筆集も多数ある。集大成は『高田敏子全詩集』である。
長女の久冨純江さんの著書などもいっしょに読まれると、また違った視点からの高田敏子像を発見することが出来るのではないだろうか。
高田敏子の詩は作曲しやすいのか、大中恩(めぐみ)中田喜直など、いろいろな作曲家の手で、歌曲や合唱曲の歌詞として多く用いられている。
技巧的で斬新な詩、形而上的な詩もわるくはないが、空虚でひとりよがりに陥りやすい一面もある。それに対して、日常の生活の中でときにはやさしく、ときには冷静に、自分を見つめ直し愛おしむ高田敏子の詩は、誰にでもなじみやすく、これからも多くの読者の心に響いて、共感と賛同を得ていくに違いない。
現代詩は俳句などに比べると取りつきにくく、実用性にも欠けるため、他人に勧めるとなると躊躇することも多いのが普通である。しかし、高田敏子の場合はそうではなかった。会う人ごとに「詩をやってみない?詩はいいわよ」と積極的に勧めていたそうである。自分に真実いいものは周囲の人にも勧めてみたい。まるで人生のよき伴侶のように、ほんとうに詩作が好きだったんだなあと思う。
多くの詩業をなして、平成元年(1989)5月に74歳で他界されたが、今も常住の世界で、たぶん好きな詩を書き続けておられるのではないだろうか。…そんな気がする。