柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
現在の法隆寺は斑鳩の里に1320年余の歴史を刻む木造建築で、境内は西院と東院に分けられます。
五重塔や金堂があるのが西院で、夢殿があるほうが東院です。東院は創建当時の斑鳩宮跡といわれ、西院は焼けた若草伽藍のあった斑鳩寺の跡地付近といわれます。
法隆寺の拝観券
真ん中の大宝蔵院(だいほうぞういん)は法隆寺の西院内にあって宝物を収蔵しているところ。百済観音堂を中心として夢違観音像・玉虫厨子・橘夫人厨子・百万塔・九面観音像などが安置されています。現在の建物は平成10年に完成した新しいものです。
この半券はそれ以前のものなので、大宝蔵殿(だいほうぞうでん)となっています。北倉・中倉・南倉とあり、大宝蔵殿のときは百済観音像もいっしょくたに収蔵されていました。
聖徳太子を模したかといわれる救世観音像(くせかんのんぞう)が納められています。天平11年(739)の創建で、春秋に御開帳です。八角形の御堂で知られ、秘仏の像はフェノロサの調査により公開されたものです。
金堂は火災で焼けなかったので当時の仏像が残っているという話も以前はありました。そればかりか、五重塔やその他の建造物も推古天皇時代のものと信じられていました。でも、今では火災後の7世紀末の建造ではないかと考えられているようです。
斑鳩寺(若草伽藍)は用明天皇の供養のために造られ、法隆寺は聖徳太子のために建てられたのではないかと私的には想像しています。そのため、薬師如来像は焼失して白鳳時代に新造され、釈迦三尊像は法起寺?などに安置されていたものをあとから運んできたのではないかと…。
有名な釈迦三尊像ですが、止利仏師の作と言われ、聖徳太子の病気平癒または浄土往生を願った釈像です。脇侍の菩薩像は、もしかしたら太子の母の間人大后(はしひとのおおきさき)と膳郎女(かしわでのいらつめ)かもしれませんね。ともかく今日も、飛鳥時代からの古い仏像を拝観できるのはありがたいことです。
金堂四面の壁画は昭和24年1月の出火で焼けてしまいました。金堂解体修理中だったため、そのうち飛天2体の絵だけが助かり、大蔵宝院にあります。
法隆寺の五重塔は白鳳時代あたりの建立かと推測されますが、心柱の伐採年代は6世紀末葉のようにいわれています。建築年代よりもずっと古いもので、どこかから古材を運んできたものと考えられています。かなり離れていますが、もしかしたら飛鳥寺のものかもしれませんね。
五重塔などの塔は元々ストゥーパ(卒塔婆)と呼ばれ、仏舎利(ぶっしゃり)を納めた建物(仏塔)でした。釈尊が入寂した当時には仏像はありませんから、お釈迦様を偲ぶよすがとして仏舎利をみんなで分けて大切に納め、そこに目印の塔を建てたのです。古代のお寺の塔の心礎によく仏舎利を納めているのはそのためです。
アジア各地に仏塔は多くありますが、日本の木造建築の三重塔や五重塔も、周囲の風景とマッチして美しいです。
中宮寺の拝観券
中宮寺の旧地は聖德太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)大后や、太子の后・橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)の宮居の跡と伝えられます。橘大郎女が推古天皇に願って工人らに作らせたという、天寿国曼荼羅繍帳はここにありました。一時期不明になっていましたが、のちに法隆寺内で見つかったようです。でも、現存するのは、奈良国立博物館に収蔵されている断片のみで、中宮寺にあるのはそのレプリカです。
現在の中宮寺は、弥勒菩薩像とされる如意輪観音の半跏思惟像が有名です。
法隆寺の魅力がその木造建築の古さ美しさ、数多くの世界的な文化財の保有にあることはいうまでもありません。
けれども、古代の日本と大陸との文化交流の歴史がいまだに多くの謎を秘めたまま一寺院に凝縮され、現在に色濃く継承されている点において、法隆寺のもつ歴史遺産としての価値もまた見落とすことが出来ず、当時の日本の姿を考える上で、欠かすことのできない場所のひとつといえるのではないでしょうか。
真冬にコスモス… (^^;)