鄙乃里

地域から見た日本古代史

小千益躬と鉄人退治

  小千益躬と鉄人退治

 小千益躬(おちますみ)公は西暦600年前後に活躍したとされる伊予の国人です。
 『予章記』に「府中樹下に御館あり、故に樹下の押領使と号す」とあり、樹下の押領使越智郡大領・伊予国守などとも記され、鴨部大神(かんべのおおかみ)とも称されています。「大領」は大宝律令以後の呼称でそのまま当てはまらないかもしれませんが、そのような地位にあったということでしょう。

 「府中」は現在の今治市のことで、「樹下」は今治市を流れる蒼社川(そうじゃがわ)流域の地名ではないかと思われます。現在も蒼社川中流に鴨部(かんべ)小学校があり、下流には小千益躬公の霊を祀る鴨部神社などが散在しています。
 この「鴨部」はもとは神戸だったらしく、それが鴨部の字に変更されたのは大同4年と伝えられる(『愛媛県神社誌』)そうですから、最初は神戸大神と称されていたのかもしれません。そのころの小千氏は伊予の国守ともされるほどの有力者だったようです。『和名類聚抄』越智郡10郷に鴨部郷が確認されます。 
  
 小千益躬で最も有名な伝承に「鉄人退治」の話があります。
『予章記』長福寺本などによると、推古天皇の御代に三韓から鉄人を大将として戎人八千人が筑紫島に襲って来たそうです。
 そのため勅命により小千益躬公も手勢を引き連れて九州へ出発したのですが、九州における守備勢では射ても伐ってもまったく歯が立たず、朝廷の味方は大半が討たれたり逃走したりして、益躬が到着してみると、鉄人を怖れて立ち向かう者が一人もなく、益躬にしても手の打ちようのない有様だったそうです。その上、鉄人は京の方へ攻め上ろうとしていました。

 そこで武略・知略に長けた小千益躬公は一計を案じました。それは自ら降参し、京への道案内をするふりをして鉄人の家来になることでした。そして、船で播磨の明石まで案内したのですが、その間に不死身のような鉄人といっても、どこかに弱点があるに違いないと考えていました。

 やがて明石の海岸に着いた時「ここからは陸地で風景がよいから」と鉄人を馬に乗せ、鉄人がそれに興じているうちに、三島明神の加護で鉄人の足の裏に弱点があることを見抜いたのです。別の伝承では、そのとき三島明神の霊威により稲妻が走り雷鳴が轟いたともいわれ、馬が驚き、鉄人にも隙ができたのでしょう。

 そこで隠し持っていた鏃(やじり)で鉄人の足を下から突いて馬から転げ落ちたところを、家人に討たせたのでした。それが蟹坂というところです。そのため大将を討たれた敵兵は大混乱となり、ついに全滅状態になったそうです。
 その戦いの後に小千益躬公は大蔵谷の西に三島明神を遷し祀ったそうで、それが現在の明石の稲爪神社と伝えられています。本来は稲妻神社でしたが、のちに稲爪に転化したそうです。
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 鉄人の軍勢については伝承により三韓百済西戎、夷狄、靺鞨などと書かれています。
 百済は当時、仏教伝来の相手国で友好国なので、あり得ないでしょう。西戎、夷狄などは単に外敵を卑称しただけの話です。三韓朝鮮半島のことで、神功皇后の遠征記事からも分かるように主として新羅を指すものと思われます。当時は新羅とは関係がわるかったので、これはありうるかもしれません。
 鉄人は鉄の鎧を全身にまとった不死身の豪傑のように考えられていて、新羅なら加羅(から)は鉄の産地ですから鉄製の鎧ぐらいは造れるでしょう。
 靺鞨(まっかつ)だとすれば、沿海州の方にいた鉄利靺鞨(てつりまっかつ)かもしれません。鉄利人を鉄人に例えたことも考えられますが、はたして、そんなに遠方から攻めてくるでしょうか?  もしかしたら、新羅に加勢したのかもしれませんね。
 
 鉄人の年代にしても、文書により敏達天皇(在位572-585)、崇峻天皇(同588-592)、推古天皇(同592-628)などいろいろ違いがあり明確ではありません。が、『予章記』には推古天皇御代とあり、小千益躬公が帰国後、戦死した兵士を弔うために創建したという今治市東禅寺の由緒でも推古10年としています。
 ただし国史にはこのような事績は一切書かれていないので、単なる地方豪族の英雄伝説のように考えられがちなのも事実です。

 しかし、推古10年が本当だとしたら、それを暗示させるような記事が『日本書紀』に認められなくもないのです。
 推古天皇10年春2月1日に、来目皇子(くめのみこ)を新羅攻略の将軍として軍兵
 2万5千人を授けられたとあります。が、それには続きがあり、次のように書かれています。

11年春2月4日、来目皇子は筑紫で薨去した。駅使(はいま)を使って奏上した。
天皇はこれを聞いて大いに驚かれ、皇太子・蘇我大臣を召されて詔し、「新羅を討つ大将軍の来目皇子が死んだ。大事に望んで後を続けることができなくなった。たいへん悲しいことだ」といわれた。

                (宇治谷孟 訳 講談社学術文庫

 朝廷の慌てぶりがうかがえるような記事です。そのため夏4月1日に来目皇子の兄の当摩皇子(たぎまのみこ)を改めて将軍に立てました。ところが、これにも続きがあり、以下のようです。

秋7月3日、当摩皇子は難波から船出した。
6日、播磨についた。そのとき従っていた妻の舎人姫王が明石で薨じた。そこで明石の桧笠岡の上に葬った。そして当摩皇子はそこから引返し、ついに征討はやめになった。

                (宇治谷孟 訳 講談社学術文庫

 このように書かれているのですが、これを読んでおかしいと思われませんか? 確かに誰でも奥さんは大事でしょうが、天皇の勅命を受けて国の大事に向かっているのです。妻を現地に葬った後は、自分の役目を続けるのが本筋ではないでしょうか。それでも奥さんのほうが大事で、もし帰るのだとしたら、妻の亡骸も大和へ連れて帰るのが本当でしょう。 
 その上に朝廷も、あまりにもあっさりと征討を諦めしすぎています。新羅征討って、最初からその程度のものだったのか?と思ってしまうでしょう。

 それで次のように考えました。もしかしたら来目皇子の軍兵は筑紫で鉄人に敗北したのではないでしょうか。そのため朝廷は慌てて、また当摩皇子を送ったが、その人が引き返した播磨の明石という場所からして、そのときすでに小千益躬の軍勢が、鉄人を退治した後ではなかったのか…と。
 当摩皇子が引き返したのは、奥さん云々よりも、それが主たる理由ではなかったのでしょうか? 

 そうだとすれば朝廷の恥になるような事実は国史に書けるはずがありません。そのため小千益躬公の朝廷への献身と活躍も、国史には書かれなかったのではないかと。
 それでも本朝の歴史を完全に黙殺するわけにもいかなかったので、こうした記事で、それとなく匂わせたのかもしれない。
 しかし、宿禰を標榜する小千氏のほうでは、朝廷のために挺身すれば名声などは別にいいわけで、ただ、家伝においてのみ、その活躍を伝えておいたのかもしれないと…思った次第です。事実かどうかはよく分かりません。

 それでも、だいぶ後年になってからのことですが、文武天皇から小千益躬に対して太政大臣・鴨部大神の称号が与えられたと『予章記』には書かれています。太政大臣はともかくも、小千益躬公が現在でも地元で鴨部大神と呼ばれているのは事実なのです。
 これが小千益躬の鉄人退治の話です。


 また伝によると、越智益躬公には別の顔もあったようです。
  『日本往生極楽記』(慶滋保胤撰、寛和年間985-987)には以下のように記されています。

伊豫国越智郡土人越智益躬為當州主簿
也自少及老勤王不倦帰法少彌劇朝讀法華
晝從國務夜念彌陀以為恒事未剃鬢髪早受十戒
法名自稱定眞臨終身無苦痛心不迷亂結定印向西念佛
氣止時也村里人聞有音樂莫不歎美矣

伊予国越智郡の人越智益躬は国庁に仕える四等官であった。
若年から老年に至るまで天子に忠節を尽くして止むことがなく、仏法に帰依することがいよいよ激しかった。朝に法華経を読み、昼は国務に従事し、夜は弥陀を念じることを日常の勤めとしていた。
頭髪を剃らないままで、早くから十戒を受け、法名を自から定眞と名乗った。
命の終わりに臨んでも身体(しんたい)に苦痛がなく、心に迷いや乱れがなく、定印を結び、西に向かって仏を心中に思い浮かべたまま往生した。その時にあたり、村の里人は音楽が流れるのを聴いて感嘆し、褒め称えない者はいなかった。

とあり、この寸話は『今昔物語』、『法華験記』その他にも書かれています。

 このような仏法への帰依心は、聖徳太子の影響を受けたものではないでしょうか。『伊豫国風土記』に「我法王大王」と書かれています。
 鉄人退治とどちらの話が小千益躬公の実像をよく伝えているのか分かりませんが、どちらも矛盾するものではないようにも思われます。


一遍聖絵』第十、大三島の条には以下のようにあります。

(ひじり)の曩祖(先祖)越智益躬は当社の氏人なり、幼稚の年より衰老の日にいたるまで朝廷につかへては三略の武勇を事とし、私門にかへれては九品の浄業をつとめとす。鬢髪をそらざれども法名をつけ十戒をうけき。つゐに臨終正念にして往生をとげ、音楽そらにきこえて尊卑にはあつまる。かるがゆへに名を往生伝にあらはし誉を子孫の家にをよぼす
                   松山市宝厳寺資料集より)

 小千益躬公は、河野氏の出である一遍上人の御先祖筋に当たる人なのでした。

 

 宝厳寺(ほうごんじ)は、愛媛県松山市にある時宗の寺で、一遍上人の生誕地。先年、火災で焼けましたが、再建されています。ただ惜しいことに、一遍上人の木像は焼失してしまいました。
 

 

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一遍上人奉納の宝篋印塔 実際は没後30年に念心という人が寄進したらしい (大山祇神社