鄙乃里

地域から見た日本古代史

天智天皇と御所だぬき

 天智天皇と御所だぬき

 いたってローカルな内容ですが、天智天皇百人一首のところで挙げた西条市御所神社(ごしょじんじゃ)に関する話です。 

 天保年間の『西條誌』に御所明神と記され、昭和40年まで加茂川左岸にあった御所神社は、新産都市指定に関わる昭和41年の河岸工事により一時的に対岸の局(つぼね)の地に遷座しました。その結果、移転先付近の通りが、いつしか御所通りと呼ばれるようになりました。

 『西條誌』に描かれている御所明神は、藪の中にある鳥居一基と祠だけしかありません。そんな小さな村社ですから、そのころも宮司は常在せず、ほかの神社から来ていました。神社の創建年や『西條誌』以前の記録は一切残っていません。たぶん往古から存在したのでしょうが、明言できることは、天正の陣(1585)で焼かれてしまったということです。

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(『西條誌』稿本より)

 新居浜・西条周辺の神社・仏閣はその大小にかかわらず、無事に残っているものはまず一つもありません。羽柴秀吉の命を受けた毛利(小早川・吉川)の軍勢が手当たり次第に火をかけてまわったからです。
 そのため寺社の宝物・古記録の類いはすべて灰燼に帰し、その上、社人・僧侶も郷土軍と運命を共にして戦死したため、由緒も創建年も不明になってしまったのです。

 そういうわけで御所神社も、昔はどんな規模のものであったのか、まるっきり見当がつきません。それでも天命開別天皇天智天皇)を祭神とし、熟田津に関わりがある神社であることだけは伝えられてきているようで、小さな社ですが西条の昔を物語る重要な神社とされています。

 関係者の方から教わった逸話を少しご紹介します。

 河川工事前の御所神社は堤防らしいものがほとんどなかったので洪水の度に被害に遭い、境内の石碑が加茂川に流されて管理人の方が何度も探しに行っては取り戻していました。しかし、あるときに大きな時化があって大切な石碑が流されたまま、とうとう完全に行方不明になってしまったということです。

 その石碑の表面にはが縦に三尾彫られており、「天智天皇が加茂川の鮎をみて美しく思い彫った」と伝えられていて、地元人はみんなそれを信じていたそうです。その鮎は紛失当時、金色に彩色されていましたが、こちらは市の役人か誰かが、あとから彩色したとかいう話でした。どんな石碑か一度見てみたかったですが、今は加茂川のどこかで永久に眠ってしまっているのでしょう。

  『西條誌』を見ると、江戸時代の御所神社にはこんもりした藪があり、中には大きな木もあって祠が描かれています。

f:id:verdawings:20200929210241g:plain 記事中にも「妖狸昼顕はるる」とあるように、その藪には当時から狸が住んでいたらしく、いつのころからか「御所だぬき」と呼ばれて、通りかかった侍が化かされた話などが民話に残されています。
 「ここは天皇のだいじな記念の場所だ。荒らすなよ」と、祠の番でもしていたのでしょうか。この藪は河川工事の際に切り払われたように地元の方の随筆に書かれていました。

 その御所だぬきはずいぶん長生きしたものか最近まで話が巷間に伝わっていて、中には狸に憑(つ)かれたような人もいたらしいのですが、今の若い人はもう、ほとんど知らないと思います。50年ほど前の工事で神社がそこから移転したからで、その加茂川の旧跡には自治会の人が建立した記念の石碑が川風に吹かれて立っているだけです。

  そのあと対岸に遷座した御所神社のほうも40年余りした平成20年に、現在地へ再移転されました。地元自治会有志による奉仕で小さいながらも新しい神社が自前で再建されています。明治政府の方針により合祀されたあと詳細不明になった神社も多いですが、人だけでなく神社でさえも、社会の事情により場所を転々と変えながら複雑な歴史を重ねていくんですね。f:id:verdawings:20200929212543j:plain


 それでも、往古からの伝承というものが地域の連帯にとってかけがえのないものであるからこそ、おぼろげながらもいつまでも住民の口碑に残って、こうして次世代へと大切に継承されていくのだろうと思います。

 


 ところで…。藪を伐られたあの御所だぬきは、どこへ行ってしまったのかな???
 今ごろ天智天皇のお伴でもしているのだろうか? (^_^;)

 

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