鄙乃里

地域から見た日本古代史

讃岐の讃留霊王伝説

 讃岐の讃留霊王伝説

 四国の讃岐に讃留霊王(さるれお)伝説というのがあります。
 景行天皇の23年、勅命により、讃留霊王が往来の船や漁師を苦しめていた大魚(鯨か、あるいは海賊などか)を退治をしたという話で、讃留霊王たちはヨナのように大魚の腹に飲まれましたが脱出したそうです。讃岐に讃留霊王の古墳と伝えられる場所もあります。

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 しかし、この讃留霊王が誰かという点になると、神櫛皇子(かみくしのみこ)、武卵王(たけかいこのみこ)、小碓命日本武尊)など諸説があって確定できず、東讃では神櫛皇子、西讃では武卵王、吉備では小碓命だとされているらしく、まったく茫洋とした話になってきます。

 讃留霊王という名はこの王が讃岐に留まったことに由来しているそうですが、まず本来の名ではなく、宛字に違いありません。「サル」に「讃留」を当てたとも考えられます。つまり「猿」です。ほかにも理由があるかもしれませんが、ただ、讃岐に永住したというのは本当だろうから、讃留霊王が東征した小碓命日本武尊)でないことは確かでしょう。

 それでも小碓命日本武尊)説がなぜかと考えるに、日本武尊熊襲征伐からの帰途に「吉備の穴渡り」と「難波の柏渡り」で悪神を成敗したことが「景行紀」に書かれています。これが上記の海賊退治とも受け取れる話だからでしょうか。この日本武尊の事績が他の命の冒険譚に変わって伝説化したものか、それとも他の命の活躍が日本武尊の事績に集約されているのか分かりませんが、日本武尊熊襲征伐に単独で行ったわけではないですから、兄弟や家来などが同行していたはずです。そうすると、日本武尊より少し年少ではありますが、弟の神櫛皇子の話なのかな?とか考えると、また分からなくなってしまいます。神櫛皇子讃岐国造の祖とあり、讃岐に廟があるので、讃岐に留まったことは確かでしょう。ただ、『日本書紀』には、熊襲征伐のとき日本武尊はまだ16歳とありますので、その御子の武卵王が活躍できるような年齢ではありません。

f:id:verdawings:20200719230656j:plain しかし、神櫛皇子の廟とされる古墳は伝説地と違う場所(高松市牟礼町)にあるので、丸亀市飯山町にある讃留霊王神社の古墳は神櫛皇子とは違うでしょう。そうすると、この古墳はやはり武卵王で、海賊退治をした讃留霊王は、武卵王なのでしょうか。武卵王は讃岐の綾君の祖で、讃岐に永住したようです。ただ、その場合は、日本武尊の子の武卵王が景行天皇の時代にそんな年齢達していたかどうかが問題でしょう。

 本居宣長の『古事記伝』に載る『讃留霊紀』に、倭建命の子が讃岐に下って悪魚を討ち平らげて讃岐の国守になったので讃留霊王といわれる話があり、これは武卵王かとしているのですが、それが景行天皇23年とあります。しかし、景行天皇23年は『日本書紀』では父の小碓命ですらまだ12歳なのですから、あり得ないことです。
 これが神櫛皇子なら家来がいればいいので、まだ合点がいくかなとは思います。坂出市府中町にある城山神社(きやまじんじゃ)の由緒は神櫛皇子を祀り、神櫛皇子が讃留霊王だと言っています。ですが、そもそも景行天皇の年譜そのものがおかしく、その年譜と小碓命熊襲征伐年16歳との間には齟齬もあるため、正確な年齢などは特定できないのが実際です。                      

  とにかく、この讃留霊王はずいぶん長生きをされて、仲哀天皇8年に120歳とか125歳で薨じたといわれるそうです。
 しかし、125歳だから言うのではありませんが、そんなとんでもない話はないでしょう。讃留霊王が武卵王だとしたら、その仲哀天皇8年には、武卵王の弟の十城別王熊襲征伐に参加しており、その上、異母兄の仲哀天皇も翌年に52歳記紀による)で崩じているのです。記紀の両方で崩御の年齢が一致しているのは仲哀天皇ぐらいなものでしょうから、これでは兄よりも倍以上の年上になってしまいます。

 神櫛皇子でも、この年齢はおかしいです。その父の景行天皇でもおかしいぐらいです。ただ、神櫛皇子の年齢を日本書紀』の編年で計算したら、ちょうど125歳になるのです。したがって、それは後世の人が計算したわけで、125歳は神櫛皇子を指しているのだと思います。一方で、武卵王は霊子とされていますから、讃留霊王の名は、武卵王を指している可能性が高いかもしれません。

 つまり、この讃留霊王伝説は、神櫛皇子と武卵王の話が一緒くたになって混同してしまっているのだと思います。あるいは、ふたりで協力して海賊退治でもやったのかもしれませんが。

 伝説とは本来、創作部分のほかにも何らかの歴史的事実が語られているものだと思います。この讃留霊王伝説の中にも多くの歴史的事実が含まれています。たしかに歴史で年代をいい加減に書いたとしたら、それはもう歴史ではなくて、ただの面白話に過ぎなくなりますが、それでも書いていることで何かが分かるという点も、伝説の面白いところだと思います。

 もっとも、地元の人たちの中では、そんな具体的な細かな話はどうでもいいのでしょう。地元に誇れる英雄伝承として、ロマンとして、この讃留霊王伝説が、今も心の支えとなって文化のように生き続けているのでしょうからね。


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