鄙乃里

地域から見た日本古代史

円珍俗姓系図

 円珍俗姓系図

 『円珍俗姓系図』とは智証大師円珍が俗世にあったときの一族の系図をいいます。
 円珍讃岐国那珂郡(現在の香川県善通寺市)の人で、弘仁五年(814)の生まれ。円珍の母は空海の姪で佐伯氏の出身といわれています。

  円珍の僧としての経歴を摘記してみますと、15歳のとき叔父の僧仁徳に従って比叡山に登り、のちに初代座主となつた義真(ぎしん)について天台を学びます。20歳で菩薩戒を受け、その後、12年間籠山の修行をして延暦寺学頭になりました。
 40歳のときには入唐して天台山で天台止観を、長安真言密教を、各地で高僧に学んだのち、多数の仏典・仏具を携えて858年に帰国。

 翌年(貞観1)に滋賀県大津市三井の園城寺(おんじょうじ)に入り、868年には第5代延暦寺座主になります。そして園城寺を伝法灌頂(でんぼうかんじょう)の道場としました。
 以来、延暦寺を山門と称し、園城寺を寺門と称して、円珍園城寺の開祖とされ、その系統が代々別当となります。927年(延長5)、それらの功績に対して醍醐天皇から智証大師諡号が贈られました。

 この『円珍俗姓系図』は海部氏系図と同じく系図です。古い部分は承和年間(834~848)に叔父の僧仁徳(宅丸)が書いたものに円珍が加筆したもので、作成(書写)年代に限れば、海部氏系図よりも古いものです。ただ、新しい部分は貞観年間の追加があるようです。

 円珍の俗姓は「和気」氏で、名は「広雄」といいました。それで『円珍俗姓系図』のことを通称で『和気系図とも呼んでいるわけです。国宝の系図は、大津市園城寺(通称・三井寺)に所蔵されています。

 円珍の先祖の母方は讃岐の因支首(いなぎのおびと)の女で、一族は代々、母方の姓を名乗っていました。それを先祖の父方の「和気」姓に改姓されるよう一族が朝廷に何度か申請していたのですが、系図に不備があったものか?どうか、なかなか承認されなかったようです。しかし、貞観8年になって、ようやく承認されています。一般には讃岐の「和気氏」といわれていますが、地元では「和気公(わけぎみ)」になります。
 
 出家で、しかも高僧である円珍がこのような俗姓に関心を持つということは、やはり一族のルーツには関心があったものか、誰かのために書き残しておこうと考えたものかと推察されます。あるいは一族が以前から「和気公」の姓を請願してもなかなか認可されないため、仁徳や円珍に先祖の資料を送って、さらに詳しい系図作成を依頼していたのでしょうか。
 系図は使用済みの紙を貼り合わせて裏面に走り書きした感じのもので、もしかしたら下書きではないのだろうかと思わせるようなものです。たとえ追加の系図であっても、承認申請の資料ならば、そんな用紙では出せないと思うのです。
                                                                  
 その系図により円珍から讃岐の先祖の系譜を遡ってみますと、

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 父方は系図の末尾に載る「忍尾別君」といって、ずいぶん昔に讃岐の那珂郡にやって来て、当地の因支首(いなぎのおびと)の女を娶り此の地に土着しました。円珍自身の出身地は空海と同じ善通寺市ですが、父祖の忍尾別君が来讃した土地は那珂郡神野郷というところでした。

 その忍尾別君とは実は伊予御村別の一族で、正確な年代は不明ですが、伊予の神野(かんの)から讃岐の那珂に移住してきたのでした。そして出身地の名をとって(当時はまだ郷はありませんが)地名にしたのです。そのため、のちに那珂郡神野郷が出来たようです。

 その後に、忍尾別君の子孫は郡家郷(丸亀市)にも進出しています。丸亀市には和気氏所縁の神野神社正八幡宮もあります。

 次に忍尾別君の系図をさらに遡上してみますと、

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 最後は武国凝別皇子にたどり着きます。つまり、円珍や仁徳らは武国凝別命の後裔だったというわけです。

 そのため「和気公」の姓に変更してもらうように朝廷に請願していたのでした。その頃はもう平安時代でしたから、古い「別」の文字よりは「和気」のほうが貴族的な名で好ましかったのかもしれません。

 忍尾別君の移住した那珂郡神野郷は大同4年に、こちらも嵯峨天皇の諱(いみな)の件で真野郷(まのごう)に郷名変更されました。「神野(かんの)」は「しんの」とも読めるので「真野」の字を当て、それがのちに「まんのう」になったようです。つまり満濃池がある、現在の香川県仲多度郡まんのう町なのでした。

 この『円珍俗姓系図』にも古い部分には若干の人名の欠があったり、系図の線が引かれていなかったり、文字に欠損部分が多かったりして、いくつかの問題点が指摘されています。しかし系図の内容は全体的に信頼性があり、『日本書紀』の記事に見られる官位などを実際に現在に伝えている点においても貴重な史料とされており、智証大師円珍らの名とともに国宝に指定されているものと思われます。


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