鄙乃里

地域から見た日本古代史

「伊豫の湯」の聖徳太子の侍(おとも)は誰?

「伊豫の湯」の聖徳太子の侍(おとも)は誰?

 『伊豫国風土記』には聖徳太子が伊豫の湯を訪れた際に碑文を残したことが記されています。その碑は発見されていませんが、詩文は卜部兼方の『釈日本記』に引用されて逸文として残っています。

 それによると聖徳太子は夷與(いよ)の村を気の向くままに歩かれたそうなのですが、そのとき太子には二人の侍(とも)が従っていたそうです。

 まず仙覚の『萬葉集註釈』にはこう書かれています。
  及、侍は高麗の慧慈僧・葛城臣なり。
 そして卜部兼方の『釈日本記』ではこのようです。
  及、侍高麗慧聡僧。葛城臣等也。

 『萬葉集註釈』と『釈日本記』とでは「恵慈」と「慧聡」の僧名に違いがあります。恵慈(えじ)は推古天皇3年(595年)に高麗から来た僧で、聖徳太子の仏教の先生でした。慧聡(えそう)も同時期に百済から来た僧で、仏教を広め、こちらも太子の先生といわれています。そして法興寺飛鳥寺)が完成すると、二人ともそこに居住していました。

 ですから、読者の解釈によって両説があるように、侍(とも)の一人が恵慈であっても慧聡であっても不思議ではないのですが、同じ風土記からの写しで名が違ったりするのはおかしいですから、どちらかが誤写と考えるしかありません。で、どちらを採るかといえば、どちらにも「高麗」の僧だと書かれていて、高麗の僧は恵慈なのですから、7分3分で恵慈僧とするのが妥当でしょう。

 次に、もう一人の侍(とも)である「葛城臣」は、通常は葛城臣烏那羅(かずらきのおみおなら)のことだとされていますが、蘇我馬子との解釈も、たまにはあるようです。
 ただ、蘇我馬子なら「大臣」と書くはずなのですが、ここでは「臣」です。また大臣なら、恵慈法師よりも先に書くのが常識ではないでしょうか。また、蘇我の大臣を太子の侍(とも)というのも少しおかしいです。それにこの頃は法興寺の建立で蘇我馬子は多忙だったと考えられ、伊予まで歩きに来る暇はなかったでしょう。それで葛城臣烏那羅のことだと思われます。 

 つまり聖徳太子は高麗僧の恵慈法師と葛城臣烏那羅らを伴って、夷與の村を逍遙したのです。それは何のためだったのでしょうか、いろいろな憶説が言われていますが、現在の愛媛県西条市小松町(以前は周桑郡)に法安寺という飛鳥時代創建の寺があります。かつては四天王寺式の大伽藍だったと伝えられています。由緒によると、その開基は伊予の豪族・小千益躬(おちますみ)とも言われています。河野氏の『予章記』や寺社の伝承によると、小千益躬は鉄人退治の伝説で朝廷の危機を救ったともされる聖徳太子時代の英傑です。
 また同じ小松町の四国61番札所・香園寺(こうおんじ)は、聖徳太子用明天皇の病気平穏を祈願して創建されたと伝わっています。
 ですから聖徳太子の来訪は法安寺の建立や古代「伊豫の湯」の石湯、それに小千益躬公の存在などと関係があるのではないかとも考えられます。
 
 それから『伊豫国風土記逸文の「五度の幸行」には次の記事が書かれています。

岡本の天皇と皇后と二躯(ふたはしら)を以ちて、一度(ひとたび)と為す。時に、大殿戸に椹(むく)と臣木(おみのき)とあり。其の木に鵤(いかるが)と此米鳥(しめどり)と集まり止まりき。天皇、此の鳥の為に、枝に穂等(いなほども)を繋(か)けて養ひたまひき。 
         (読み下し文 日本古典文学大系風土記岩波書店

 そして、これと類似の注釈が『万葉集』(巻一の6)にも書き添えられています。

 大殿戸は御殿の戸口のことだと思われますが、旅先なので行宮かちょっとした居室のようなものではないでしょうか。鵤(いかるが)はイカルのことで、比米鳥(しめどり)はシメでしょう。どちらも小鳥にしてはやや大きいほうで、文鳥の嘴に似た頑丈そうな嘴を持っています。これで木の実を割って種子などを食べるのでしょう。もちろん稲も食べたかもしれません。

 ところで問題は椹(むく)と臣木(おみのき)です。まず「椹」はサワラと読みますが、ムクと仮名が振ってありますから、理由は分かりませんが、この場合はムクなんでしょう。ムクノキはイカルやシメなどがよく集まる木です。

 次の臣木(おみのき)については、注釈書によると「樅木(もみのき)」または「不明」としているものが多いようです。広辞苑にも「樅の古名」とありました。ですが、その説明については以前から若干の疑問を感じています。

 「臣木」がなんで「樅木」なんだ??

 イカルやシメが集まるのは食糧となる実がその木にあるからで、稲穂を掛けるのは掛けやすい場所に枝があって、たぶん、鳥が近くに寄ってくるからでしょう。それに舒明天皇と皇后が訪れたのは『日本書紀』によると冬の12月だったはずですから、常緑樹よりも落葉樹のほうが小鳥はよく観察できると思うのです。

 その臣木に関して『伊豫の高嶺』の著者である真鍋氏は、面白い見解を述べておられます。
 真鍋氏によると、ここでいう臣木は樅木ではなく、楢木(ならのき)のことだというのです。熟田津の西田の少し西の方に楢木という地名があります。古代にはそこに有名なナラノキがあったらしく、それが村名の始まりになったようで、江戸時代の楢木村、現在の西条市楢木なのですが、その木は楢でもコナラ(小楢)で、コナラはオナラとも読めますね。だから、臣木は楢木だというのです。

 つまりそれは、こういうことなのでしょうか。

 聖徳太子らが夷與の村を歩いていると、立派なコナラの木に出くわした。
 そこで太子は立ち止まって、お供の葛城臣烏那羅に「烏那羅(おなら)よ、この木を見てごらん。ほら、これはおまえの木だよ。臣の木だ」と言われたのではないでしょうか。そこから楢木が地元では臣木と呼ばれるようになったのではないか。それが『伊豫国風土記』や赤人の歌にそのままの樹木名で書かれているのだと。つまり「臣木」とは楢木のことなんだ…と。
 これは聖徳太子らが実際に歩いた地元でしか考えられないユニークな着想ですが、学者が考える「樅木」よりもよほど説得力があるのではないでしょうか。楢木はドングリが着果するのです。

 もしそのとおりであれば、太子の侍(とも)の一人とされる葛城臣が、蘇我馬子ではなく、烏那羅であったことは疑いようがないといえるでしょう。

 

 

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小松町 香園寺