鄙乃里

地域から見た日本古代史

人麻呂挽歌 ~万葉歌から考える~

 人麻呂挽歌 ~万葉歌から考える~

 ずっと若いころに『万葉集』の講演を聴いたことがありました。その時の講師の一人に梅原猛氏がおられて、終了後に出口で自著の購入者にサインをしてあげていました。私は買っていませんが2冊あり、一方の本のサインには「真実はわたしたちの身近にある」、他方には「秘められたものの語る声は静か」と書かれていたように覚えています。その一方とは、たしか『隠された十字架』で、他方は『水底の歌』だったように思います。

  『万葉集』巻二に、柿本朝臣人麻呂が赴任先の石見から上京する際に現地妻との別離を惜しんで詠まれた歌があります。

石見の海  角の浦廻(つののうらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦は無くとも よしゑやし 潟は無くとも 鯨魚(いさな)取り 海邊をさして 渡津(わたつ)の 荒礒の上に か青なる 玉藻奧つ藻 朝羽(あさは)振る 風こそ寄らめ 夕羽振る 波こそ來寄れ 波の共(むた) か寄りかく寄り 玉藻なす 寄り宿(ね)し妹を 露霜の 置きてし來れば この道の 八十隈毎(やそくまごと)に 萬(よろづ)たび 顧みすれど いや遠に 里は放(さか)りぬ いや高に 山も越え來ぬ 夏草の 思ひ萎(しな)えて 思(しの)ぶらむ 妹が門見む 靡(ひら)けこの山(131)
                                                                               
            反歌二首
石見のや高角(たかつの)山の木の間よりわが振る袖を妹見つらむか(132)
小竹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげども吾は妹思ふ別れ來ぬれば(133)

 上記の歌には内容が同じようでもいくつかのバリエーションがあるらしく、ほかにも少し異なった2首が掲載されていますが、ここでは省略します。

 人麻呂の石見の妻とは依羅娘子(よさみのおとめ)ですが、こちらの歌も1首が掲載されています。

  柿本朝臣人麻呂の妻依羅の娘子の、人麻呂と相別るる歌一首
な念(おも)ひと君は言へども逢はむ時何時と知りてかわが戀ひざらむ(140)


 こうして人麻呂が上京した後、飛鳥浄御原宮や藤原宮において宮廷歌人として何年奉仕していたのか定かではありませんが、文武天皇の御代よりも後の元明天皇の御代(708年?)あたりに、また石見に戻ることになったようです。

 その途中、讃岐の沙弥島(さみじま)の磯で行き倒れになっている人を見かけて詠んだ歌があります。
 長歌は長いので省略しますが、反歌は、

妻もあらば採(つ)みてたげまし作美の山野の上の薺(うはぎ)過ぎにけらずや(221)

沖つ波來寄る荒礒を敷細(しきはた)の枕と纏(ま)きて寐(な)せる君かも(222)

 この2首があり、人麻呂自身の臨死を予見したかのような歌が書かれています。歌の順番は時間経過に沿ったものでしょうか、それとも編集者の考えもあるのでしょうか。

 その次に、巻2の終わりの方に、いよいよ、

柿本朝臣人麻呂の、石見国にありて臨死(みまか)らむとせし時、みずから傷みて作れる歌一首

鴨山の磐根し纏(ま)ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ(223)

があり、続いて、

 柿本朝臣人麻呂の、死(みまか)りし時、妻依羅娘子の作れる歌二首
今日今日とわが待つ君は石川の貝に(一は云ふ、谷に)交りてありといはずやも(224)

直(ただ)に逢ふは逢いかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ思ばむ(225)

があります。

 なぜ人麻呂がこのような状況に陥ったのか、肝心の理由はまったく書かれていません。自分の場合、時の権力者による流罪だとか、処刑だとか、そういった政治的な背景はまったく知らないので、これらの歌が作為でないことを信じ、純粋にこれらの歌からのみ解釈した想像なのですが、人麻呂の船が難破して岩礁に打ち上げられて負傷したのではないかと思えたのです。
 
 妻の歌にあるように「貝に交じりて」ということになると海底の印象を受けますが、「石川に雲立ち渡れ」のように石川という場所があり、「鴨山の磐根し纏ける」とあるので、水中とは関係がないと思われます。前出の讃岐の歌から類推しても荒磯ではないかと考えます。

 「谷」と解すると、山の間ですから、山に続く崖、荒磯であっても不思議はありません。いずれにしても「石川に雲立ち渡れ」から考えると、石川という場所が妻には分かっているのですから、妻のいる土地からそう遠い場所ではないでしょう。石川と鴨山はごく接近した場所だと思われます。しかし、そこから動けないということは、人麻呂がひどく負傷したことを物語っているのではないでしょうか。

 そして、人麻呂最後の歌が現在に伝わっているということは、そばにいた誰かがそれを伝えなければ残りません。人麻呂が遭難したのはおそらく人里離れた峻険な場所と思われ、そこに放置されたわけではないでしょうが、救助を求めるためには、瀕死の人麻呂を一人残しても、その人が立ち去らねばならなかったのではないでしょうか。

  或る本の歌に曰はく 
天離る夷の荒野に君を置きて念いつつあれば生けるともなし(227)

 その人は慣れない道を救助を求めに急いだけれども間に合わず、助けることが出来なかったのだと思います。ここにも荒野と書かれていますから、水中ではないはずです。石川のほとりの鴨山という場所ではないかと思います。もしかしたら、依羅娘子に知らせたのはこの同伴者だったのかもしれません。

 最後に、そのひとつ前に挿入された歌一首ですが、

  丹比真人(名闕けたり)の柿本朝臣人麻呂の意(こころ)に擬(なぞ)へて報(こた)ふる歌一首
荒浪に寄りくる玉を枕に置き吾ここにありと誰か告げけむ226

 これはおそらく、ここに配置された歌と直接的には関わりがない人の歌ではないでしょうか。人麻呂の胸中に擬(なぞら)えた歌とありますから、その人も同じような運命を経験しているのだと思います。
 そのことから、ここにいう丹比真人とは、もしかしたら丹比真人三宅麻呂のことではないかと推測します。(名闕けたり)とあるのは、三宅麻呂が罪人だから、あえて名を書いていないのです。

 『続日本紀』によると、三宅麻呂は722年に謀反の誣告罪で伊豆(名前からして三宅島?)に流された人です。柿本朝臣人麻呂と知己だったかどうかは分かりませんが。しかし、流人(るにん)としての丹比真人三宅麻呂は、柿本朝臣人麻呂の最後とその歌には人一倍、関心を抱いていたはずです。したがって、伊豆の島で人に知られることもなく、波の音を子守歌に眠る流人の丹比真人(三宅麻呂)の歌が、編集者により、この場所に配置されているのではないかと推察します。

 もしそうだとすれば、柿本朝臣人麻呂の遭難地も鴨山とはいっても、同じように海岸近くの波の音が聞こえる、そして貝もいるような荒磯だったのではないかと想像してみるのです。人麻呂の赴任地ではないかと考えられる浜田市には浜田川があって城山がありますよね。他の人も書いておられましたが、浜田川が石川で、城山が鴨山なのではないでしょうか。隣の江津市は依羅娘子の居住地だとの説があり、相聞歌の高角山があって、気の早いことに人麻呂と依羅娘子の銅像までが建てられています。江津市から浜田市は近いですよ。人麻呂らは舟で石川を下って赴任地の浜田まで行ってから河口付近の鴨山で遭難したのでは? と思ったのです。それなら、妻のところまでもうわずかの距離なのですから、それは…無念だったろうと思いますね。

 
万葉集』に採録されている歌から直接感じた感想だけを、とりとめもなく書いてみた次第です。くれぐれも政治的な背景があるのかないのかは知りません。

 

      * 文中の歌は 武田祐吉校註『万葉集』上巻 角川文庫 より


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