鄙乃里

地域から見た日本古代史

2020-01-01から1年間の記事一覧

神武東征の旅2 笠沙の崎は都井岬? 

『古事記』に、 「此地(ここ)は韓国(からくに)に向かひ、笠沙の御前(みさき)に真来通(まきとほ)りて、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚(いと)吉き地(ところ)」と詔(の)りたまひて、底つ石根に宮柱ふとしり、高天原…

神武東征の旅1 高千穂降臨伝説

九州の霧島は神話・伝説の地として知られています。 霧島山麓の高原町(たかはるちょう)にある狭野神社(さのじんじゃ)は、狭野命(神武天皇の幼名)に関係がある神社とのことで、高千穂峰に天孫降臨伝説があります。生誕地云々の真否は分かりませんが、実…

大岡政談とソロモンの知恵

大岡政談に「子争い」という話があります。誰もが一度は聞いたことがあると思われる有名な話で、筆者も小学生のころに少年雑誌で読んだ覚えがあります。こどもごころにも「なるほど」と感心したものです。 それは二人の母親が一人の子を自分の子だと言い争っ…

芙美子の「帰郷」~もう一つのふるさと~

林芙美子は昭和前期を代表する作家の一人で、47歳で早世したが、多くの作品を世に出している。 昭和39年度のNHK連続テレビ小説『うず潮』は、林芙美子の半生を描いた現在の朝ドラで、女優の林美智子さんの代表作ともなった。 東宝・芸術座公演では森光子さん…

猿飛佐助と立川文庫を創った人々

最近の若い世代は別にしても、少し年配の人なら「猿飛佐助」を知らない人はまずいないだろう。かつて講談や漫画や映画の中で「真田十勇士」の一人として神出鬼没、大活躍をした甲賀流の忍者だ。師匠は忍術名人の戸沢白雲斎(とざわはくうんさい)。伊賀流の…

木村長門守重成

《 目 次 》

木村長門守重成~4

木村長門守重成~4 生きていく上で学問よりも武芸よりもだいじなものは、堪忍だぞ 明くる慶長20年(1615)いよいよ大坂夏の陣が始まった。 5月6日、白妙と最後の別れを交わした木村重成は、東大阪の若江(わかえ)の戦いに出陣した。緒戦は藤堂軍を打ち負…

木村長門守重成~3

木村長門守重成~3 生きていく上で学問よりも武芸よりもだいじなものは、堪忍だぞ 真野頼包(よりかね)も重成の思慮深さと人格とを認めて、白妙は重成の妻になった。しかしそのころ、すでに豊臣方と徳川方は不仲になっていた。重成のほうでも「自分は豊臣…

木村長門守重成~2

木村長門守重成~2 生きていく上で学問よりも武芸よりもだいじなものは、堪忍だぞ このように周囲からかわいがられ慕われる重成だったが、やはり世間には、それを妬(ねた)んで嫌がらせをする者もいたようである。 その男は知徳院源十郎という坊主で、自分…

木村長門守重成~1

木村長門守重成~1 生きていく上で学問よりも武芸よりもだいじなものは、堪忍だぞ 木村重成(きむらしげなり)は戦国時代の歴史に興味がある人ならたいてい知っていると思うが、そうでない人にはあまりなじみがないかもしれない。ただ先年、大河ドラマ『真…

伊予の周敷神社と多治比連

伊予の周敷神社と多治比連 伊予国周敷郡に鎮座する周敷神社(すふじんじゃ、愛媛県西条市周布本郷)は多治比連(たじひのむらじ)らが祀る神社である。『和名類聚抄』周敷郡7郷のうちに余戸(あまりべ)があり、これが周敷郷にあたり、南海道の駅家(うまや…

人麻呂挽歌 ~万葉歌から考える~

人麻呂挽歌 ~万葉歌から考える~ ずっと若いころに『万葉集』の講演を聴いたことがありました。その時の講師の一人に梅原猛氏がおられて、終了後に出口で自著の購入者にサインをしてあげていました。私は買っていませんが2冊あり、一方の本のサインには「…

天智天皇と御所だぬき

天智天皇と御所だぬき いたってローカルな内容ですが、天智天皇の百人一首のところで挙げた西条市御所神社(ごしょじんじゃ)に関する話です。 天保年間の『西條誌』に御所明神と記され、昭和40年まで加茂川左岸にあった御所神社は、新産都市指定に関わる昭…

我が衣手は露に濡れつつ ~百人一首の真実~

我が衣手は露に濡れつつ ~百人一首の真実~ 秋の田のかりほの庵の苫をあらみわがころも手は露にぬれつつ 小倉百人一首は『後撰和歌集』に載る天智天皇の歌から始まっています。 この歌は天智天皇が収穫期の農民の苦労を思いやって詠まれた歌ではないかと、…

予州新居系図

予州新居系図 概 略 『予州新居系図』は鎌倉時代に書かれた伊予国の新居一族の系図で、弘安4年(1281)頃(ほかに正応年間との資料もある)に東大寺戒壇院学僧の凝然(ぎょうねん)が消息文の紙背に記したものです。 反古紙を10枚つなぎ合わせた裏面に書き付…

日本三大古系図寸考

《 目 次 》 円珍俗姓系図 籠神社と海部氏系図 1 奥宮の祭神はどこからきたか? 2 私説 伊勢神宮遷座物語(1) 3 私説 伊勢神宮遷座物語(2) 4 籠神社 ~結び~ 予州新居系図

籠神社 ~結び~

籠神社 ~結び~ そういうわけで、籠神社奥宮(真名井神社)と伊勢神宮外宮の豊受大神は「萬幡豊秋津師比売命(栲幡千千姫)」であったとするのが、最初に書いている私見です。両宮にまつわる様々な疑問を納得できるような形で理解するためには○のところにこ…

私説 伊勢神宮遷座物語 外宮の神様ってだれ?(2)

私説 伊勢神宮遷座物語 外宮の神様ってだれ?(2) 伊勢神宮は天武天皇のころまでには、すでに二所に別けられていたようですが、内宮の祭神が入れ替えられようにも思われます。なぜそのように考えるかといえば、外宮の正宮の様式が男式になっているのに、内…

私説 伊勢神宮遷座物語 外宮の神様ってだれ?(1)

私説 伊勢神宮遷座物語 外宮の神様ってだれ?(1) 天照大神は『日本書紀』によると垂仁天皇の御代に倭姫を御杖代として宇陀の篠幡・近江国・美濃をめぐった後、伊勢に鎮められたとしています。平安時代の『皇太神宮儀式帳』や鎌倉時代の『倭姫命世紀』では…

籠神社 奥宮の女神はどこから来たか?

真名井神社の女神はどこから来たか? 籠神社(このじんじゃ)宮司家の所蔵になる『海部氏系図』は古代の形式を持つ竪系図で、貞観年間(859~877)の書写とされる海部氏本系図と江戸時代書写の勘注系図をいいます。内容は他の二系図に比べて数百年も過去の時…

円珍俗姓系図

円珍俗姓系図 『円珍俗姓系図』とは智証大師円珍が俗世にあったときの一族の系図をいいます。 円珍は讃岐国那珂郡(現在の香川県善通寺市)の人で、弘仁五年(814)の生まれ。円珍の母は空海の姪で佐伯氏の出身といわれています。 円珍の僧としての経歴を摘…

讃岐の讃留霊王伝説

讃岐の讃留霊王伝説 四国の讃岐に讃留霊王(さるれお)伝説というのがあります。 景行天皇の23年、勅命により、讃留霊王が往来の船や漁師を苦しめていた大魚(鯨か、あるいは海賊などか)を退治をしたという話で、讃留霊王たちはヨナのように大魚の腹に飲ま…

神功皇后と熊鰐

神功皇后と熊鰐 仲哀天皇8年1月4日、天皇が筑紫に向かったとき、岡県主(おかのあがたぬし)の先祖の熊鰐が周防の佐波の浦に出迎えたことが『日本書紀』に書かれています。 この佐波の浦は現在の防府市(ほうふし)付近で、豊浦宮からはかなり東に離れてい…

十城別王と吉備武彦

《 目 次 》 十城別王の軌跡 吉備の桃太郎と鬼退治

嵯峨天皇と寂仙菩薩

《 目 次 》 嵯峨天皇は寂仙菩薩の生まれ変わり 壇林皇后は橘の嫗の生まれ変わり 嵯峨天皇の乳母

吉備の桃太郎と鬼退治

吉備の桃太郎と鬼退治 十城別王は『日本書紀』によると日本武尊と吉備穴戸武姫の男子で、武卵王(たけかいこのみこ)の弟である。母の吉備穴戸武姫は『日本書紀』では吉備武彦の女であるが、『古事記』では吉備武彦の妹になっている。 その吉備穴戸武姫の吉…

十城別王の軌跡

十城別王の軌跡 長崎県の平戸に志々伎神社(しじきじんじゃ)がある。ほかにも九州にいくつかの分社があり、対馬にも王を祀る神社があるそうだ。 志々伎神社の主祭神は十城別王(とおきわけのみこ)で、沖ノ宮は、その十城別王の陵所だと伝えられている。 十…

斉明天皇はなぜ征西したか

斉明天皇の征西はなぜ? 斉明天皇の征西記事は以前にも書きましたが、百済救援以外の目的についてはあまり触れていなかったので、今回はそのあたりを考えてみたいと思います。 661年、斉明天皇は百済救援のため瀬戸内海を西に向かいましたが、それは何故でし…

嵯峨天皇の乳母

嵯峨天皇の乳母 『日本文徳天皇実録』のもう一人の女性、嵯峨天皇の乳母のほうも、神野郡の出身です。 『続日本紀』に短い一文が出ています。 《延暦十年(791)正月甲戌【十三】》甲戌。大秦公忌寸浜刀自女賜姓賀美能宿禰。賀美能親王之乳母也。 これによる…

壇林皇后は橘の嫗の生まれ変わり

壇林皇后は橘の嫗の生まれ変わり 次に六国史の第五で879年完成の『日本文徳天皇実録』には、先の上仙(寂仙)の記事に加えて、橘の嫗(おうな)の伝承と、嵯峨天皇の乳母の話が書かれています。 『文徳天皇実録』巻第一 伊豫國神野郡。昔有高僧名灼然。稱爲…