鄙乃里

地域から見た日本古代史

神武東征の旅2 笠沙の崎は都井岬? 

 『古事記』に、

「此地(ここ)は韓国(からくに)に向かひ、笠沙の御前(みさき)に真来通(まきとほ)りて、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚(いと)吉き地(ところ)」と詔(の)りたまひて、底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷木たかしりて坐しき。

と、あります。

 「此地」がどこを指すのか『古事記』の記述は釈然としない面もありますが、「高千穂のくじふるたけに天降り坐しき」に続いているので、まだ薩摩半島ではなくて、高千穂峰付近と判断したいと思います。

f:id:verdawings:20201219213540j:plain

天の逆鉾 何年頃の写真なのか? 今の様子とはかなり異なっているようです

霧島案内より

 この文章は人によりいろいろな読み方が可能だと思います。ここでは、次のように解釈してみました。
 「この地は韓国(加羅国)の方角に向かい、笠沙の岬に一直線に通って、朝日がそのまま射してくる国である、夕陽もよく照る国である。だから、この地はとてもよい所だとおっしゃって、ここに宮を建てて住まわれた」。

 記紀の時代ともなると、高千穂峰から見た韓国のおよその方向ぐらいは分かっていたでしょう。

 その後に訪れた笠沙の崎は鹿児島県の野間半島かといわれ、『日本書紀』に「吾田の国の長屋の笠狭崎」とあり、それらしい地名や古蹟もあるので通説を否定するものではありませんが、『古事記』はその場所を示しておらず、自分の解釈から云うと、なんと、都井岬になるのです。

 朝日が射してくる方角は季節や時刻により異なりますが、東を中心とした方向でなければなりません。「笠沙の御前」が薩摩半島だとすると、薩摩半島から高千穂峰に向かって朝日が射してくるでしょうか? この場合、東の海から笠沙の岬をまっすぐ通過して朝日が射してくるのです。そこが高千穂峰であれば、その海は日向灘になるのではないでしょうか? そして、その射す方向は韓国方面へと向かって射しているのですから、笠沙の岬は韓国(加羅国)と高千穂峰を結ぶ直線上に位置していないといけないはずです。都井岬はほぼその直線上に位置するのです。

f:id:verdawings:20201219220828j:plain


 高千穂峰から見る冬至の日の出(7時15分頃)は宮崎市あたりの方角からだと思いますが、少し時間が経つと太陽は南に寄りますから、都井岬に近づくでしょう。春秋でも時間をおくと南東に回るので、それに近いと思われます。韓国(加羅国)の方向と、高千穂峰と、笠沙の岬が直線上でなかったら「此地は韓国に向かひ」の語句が宙に浮いて意味をなしません。方角さえ変われば、どこだって韓国(加羅国)に向いているわけですから。そうなると、地理的には糸島説のほうがずっと有利になってしまいます。

 しかし、韓国(加羅国)と高千穂峰と笠沙の岬がほぼ直線上に位置して、笠沙の岬から朝日が照らしてくるから、「此地は韓国に向かひ」の意味がつながって理解されてくるわけです。季節により時刻が多少変わることがあっても、ほぼこの直線上を朝日が射してくる時間帶が存在するのでしょう。この『古事記』の一文は、高千穂峰の場所を特定するのに重要な記述ではないかと思えます。

 さらにその直線上には韓国岳も位置しています。高千穂峰から韓国岳を望んだ線上に韓国(加羅国)の方角があるので、後に韓国岳と名付けられた可能性もあります。その線上付近に東松浦半島があり、多少の出入りはありますが長崎県対馬付近を通って釜山の西あたりの加羅国に至っています。ですから、『古事記』によるこの解釈では、実際の笠沙の岬は都井岬しかないわけです。

 都井岬日南海岸で、その少し北には日南市があり、神武天皇の妃・吾平津姫を祀る吾平津神社(乙姫神社)があります。
 『古事記』には「日向に坐しし時、阿多の小椅君の妹、名は阿比良比売に娶いて生みませる子、多芸志美美命.次に岐須美美命二柱坐しき。」とあります。
 吾平の地名は大隅半島の鹿屋市にもありますが、『日本書紀』にも「日向国吾田邑吾平津姫を娶とって妃とされた。」とあり、神武天皇が此の地で妻を娶ったのは日向の吾田(あがた)邑であり、宮崎市役所のそばに吾田神社(あがたじんじゃ)があって、そこに神武天皇吾平津姫手研耳命の3柱が祀られています。


 また宮崎市には花神(きばなじんじゃ)もあり、瓊々杵尊木花開耶姫命が祭神となっていて、また宮崎市の北の西都市には都萬神社があって、こちらでも木花開耶姫命が祀られています。鹿児島県ではないのにこんなにゆかりの神社があるのもおかしいです。吾平津姫木花開耶姫命の伝説地は、実際には、宮崎県がほんとうなのかもしれません。

 その周辺には関連伝承が多く「神代記」に「火酢芹命は吾田君小橋らの遠祖」と書いてありますが、『古事記』によると「阿多の小椅君(
小橋君)」は阿比良比売の兄です。したがって、「阿多」と「吾田」は同じ土地を指していることになります。両方共が大隅半島でなければ、この「日向の阿多」も日南市周辺のことであり、都井岬の北の一帯になるでしょう。神武天皇の伝・高千穂宮は宮崎市にありますから、吾平津姫の居所である吾田が近隣にあったのは不思議でありません。すると、笠狭崎の「吾田」も、もしかしたら薩摩半島とは限らないかもしれません。ただ、「笠狭崎の吾田の国」と「吾田邑」では国と邑で表記が異なっているので、そのへんをどう考えるかによりますが。もしかしたら、神武天皇の伝承が、瓊瓊杵尊の神話にデフォルメされているのかもしれませんね(?)。

 『日本書紀』の中で塩土老翁(事勝国勝長狭)が、瓊瓊杵尊と若三毛野命の両方に登場するのもおかしいです。
 「吾田国の長屋」とか「長島の竹島」とか、薩摩半島らしく書いているのは『日本書紀』のほうで、『古事記』は笠沙の御前で木花之佐久夜毘売と出遇った以外、具体的な場所には触れていません。


 ただ『古事記』の「此地は韓国に向かひ、…」以下の展開は筆者の読解に沿った話なので、他の人がどのように読んで、どう考えるかは分かりません。
 それでも、笠沙岬の原型は都井岬あるかもしれないという疑問だけは提起しておきたいと思います。そうでないと、「此地は 韓国に向かひ」の一文に限れば、糸島説の方がずっと理に適っていて、霧島説はまさに霧のごとくかすんでしまうでしょう。

f:id:verdawings:20201219231000j:plain

霧島神宮 高千穂峰の鹿児島県側にある。主祭神瓊瓊杵尊

高千穂峰と御鉢の間にあった元宮を長尾山に移し、さらに東西に分けて遷したといわれる

(つづく)   

f:id:verdawings:20201224224820j:plain