鄙乃里

地域から見た日本古代史

斉明天皇はなぜ征西したか

 斉明天皇の征西はなぜ?

 斉明天皇の征西記事は以前にも書きましたが、百済救援以外の目的についてはあまり触れていなかったので、今回はそのあたりを考えてみたいと思います。

 661年、斉明天皇百済救援のため瀬戸内海を西に向かいましたが、それは何故でしょうか。もちろん『日本書紀』に「筑紫に行幸して将軍らを送る」とあるとおり、その主たる目的はそうだろうと思うのですが、それだけなら皇太子や将軍らに詔を下すだけでもよかったのではないでしょうか。斉明天皇は女帝であり、しかも、68歳の高齢だというのです。

 日本の歴史でそれまで天皇が先頭に立って出陣した例は、神武天皇の即位以前や景行天皇の九州巡幸を除くと、記紀では仲哀天皇しかいません。もちろん斉明天皇には中大兄皇子大海人皇子らが同行していたし、征西するにしても筑紫までの航海ではあったのですが、女帝自らが出征するのは普通のことではないように思います。それも皇女をはじめ多くの近侍まで引き連れているのは何故なのでしょうか? 
 天皇自らが出向くには、それなりの理由があったはずです。

 それで、この点に関して、それらしい5つほどの理由を考えてみました。

 1.神功皇后新羅遠征にあやかろうとした

 女帝自身が征西に参加することにより、神功皇后新羅遠征にあやかり、将軍や麾下の兵を勝利へ導くように鼓舞しようとしたのではないか。

 『日本書紀』(講談社学術文庫)には神功皇后の次のような内容の言葉が書かれています。そのままではなく要約です。

「征討を群臣にゆだね失敗した場合は群臣に罪がある。これは群臣にはつらいことである。しかし、神祇と群臣の助けを借りて自分が軍を興して事が成れば、群臣には共に功績があり、成らなかったら自分一人の罪である。この覚悟であるから、よく相談せよ」

と。そこで、群臣はみな「慎んで承ります」と応えたというのです。            

 斉明天皇百済救援の意思決定者として、その覚悟のほどを見習ったのかもしれません。そのためにも、まず最初に伊予の熟田津(西条市)に立ち寄る必要があったのではないでしょうか。

 橘の木が立っていたという熟田津(にきたつ)の石湯八幡宮は、神功皇后の行宮跡に建てられたと地元の古記が伝えていて、『伊豫国風土記逸文にある神功皇后の「橘の島」の御歌も(奈良県高市郡ではなく)地元ではこの地域の歌だといわれています。

   橘の島にし居れば河遠み曝さで縫ひし吾が下衣

 『万葉集』では「衣に寄せる」という譬喩歌に入っています。

 また、仲哀天皇と皇后は熟田津の東の飯積神社西条市下島山)に祀られ、神功皇后応神天皇も西の石岡神社西条市氷見)に祀られています。石湯八幡宮を中心に、これらの3社が西条の昔の海岸線に並んでいますから、熟田津一帯は、神功皇后との縁が格別に深かった土地のようです。

 2.伊曽乃神社の武国凝別命仲哀天皇の叔父

 その理由の一つとして、武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)が仲哀天皇の叔父だったことが挙げられると思います。
 熟田津の隣にある中野村の伊曽乃神社は、天照皇大神武国凝別命を伊曽乃神として祀っています。武国凝別命景行天皇の皇子で成務天皇の御代に当地に派遣された皇別(すめわけ)でした。その子孫の御村別(みむらわけ)が地域を治めていた関係から、斉明天皇一行も逗留がしやすく、兵を募るにしても格好の場所だったのでしょう。

  伊曽乃神社ホームページ



 3.熟田津には古代「伊予の湯」が存在した

 熟田津は西条市の加茂川と中山川が交わる大江の湊にある古来の船着場でしたが、加えて、そこには過去の天皇らが行幸された古代「伊豫の湯」(熟田津の石湯)がありました。斉明天皇にとっても、皇后時代に舒明天皇と何度か訪れたことがある思い出の地であり、土地勘のある場所でもあったのです。

山上憶良の大夫の類聚歌林を検するに曰く、飛鳥の岡本の宮に天の下知らしめしし天皇の元年己丑、九年(十二年の誤りか)丁酉の十二月己已の朔にして壬午の日、天皇、大后、伊豫の湯の宮に幸しき。

      『万葉集』熟田津の歌の註釈(武田祐吉校注 角川文庫)

                    
 したがって、この伊豫の湯を20年ぶりに再訪して舒明天皇を偲ぶことも、当初からの計画に入っていたものと思われます。皇女や近侍にも見せたかったのかもしれません。

   老いの波むかしにまたもかへるやと寄りて汀に橘の島

 そして、この熟田津を出発するときに詠まれたのが、額田王の有名な「熟田津の歌」だったのです。

   熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
   (熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜)

 4.宇摩郡天智天皇ゆかりの地?

 その熟田津の石湯行宮からどんな順路を取ったものか、斉明天皇が次に向かったのは磐瀬行宮(いわせのかりみや)でした。『日本書紀』に載る磐瀬行宮は通説で筑紫とされますが、伊予の伝承によると宇摩郡(うまぐん)の村山神社に比定されます。

 その村山神社所在地である宇摩郡常の里四国中央市土居町津根)には、『西條誌』稿本によると皇子塚というものがあるように書かれていて、

村内に皇子塚と云あり、天智天皇駐[蹕]の時、皇子の薨シ玉ひたるありて、其陵墓の墟也と云

と記されています。天智天皇の皇子で該当しそうなのは建王ぐらいしかいないのですが、事実とすれば、斉明天皇宇摩郡に立ち寄りたかったでしょう。

 また『西條誌』の頃には、村山神社の境内に御手洗泉(みたらしのいずみ)という池があったようで、絵図にもちゃんと写生されています。

境内に廣サ十坪程トの泉あり、御手洗と呼、天智天皇 土佐の朝倉より、此地に行幸ありて、天神地祗 を祭らるゝ時、盥漱(かんそう)ありし泉也と云、

とあり、天智天皇がよく登場します。

 しかし、それとは別に、宇摩郡にはその当時、安陪小殿小鎌(あべのおどのおかま)も居住していたのです。安陪小殿小鎌は『続日本紀』に次のように書かれています。

「難波の長柄の朝廷(孝徳天皇)は、大山上(正六位ほど)の安陪小殿小鎌を伊予国に遣わして朱砂(辰砂・朱色の顔料)を採掘させましたが、小鎌はそこで秦首の女を娶って、子の伊予麻呂が生まれました。伊予麻呂は父祖の姓をつがず、母の姓ばかり名乗っていましたが、浄足はその子孫であります」

                 宇治谷孟訳 講談社学術文庫

 小鎌は孝徳天皇のときに伊予に送られたいわば金集使ですが、秦氏の首長の娘を娶ってこの地に永住したようです。孝徳天皇の時代ですから、斉明天皇の661年だと同時代で、まだ健在だったのかもしれません。土居町津根太鼓台の高欄幕(こうらんまく)には斉明天皇と小鎌の図柄が金糸で縫い込まれていますから、地元ではかなり知られた話だったようです。秦氏応神天皇のとき当地に来たと、これも『続日本紀』に書かれています。

 5.大三島へ戦勝祈願に立ち寄りたかった

f:id:verdawings:20200619152641j:plain

 さらに斉明天皇は、その磐瀬行宮から(または土佐朝倉宮を介してか?)小市国(越智郡、現在の今治市)の朝倉に、水軍の出陣を要請に行ったかもしれません。『日本霊異記』ほかに載る小千直(小千守興)は白村江の戦いに出征して唐軍の捕虜になりましたが、観音菩薩を信仰して帰国した人です。朝倉に古谷(こや)という土地があり、そこに多伎神社(たきじんじゃ)があります。小千直一族と関係があった神社のようです。したがって、越智郡朝倉の地に「朝倉橘広庭宮」があった可能性が指摘されます。
 ただ、斉明天皇は朝倉に遷居しても、中大兄皇子は両宮の間を行き来していたかもしれません。

 それから『日本書紀』には書かれていないのですが、斉明天皇はその際に大三島瀬戸浦の横殿大山祇神社旧跡)を訪れて禽獣葡萄鏡(きんじゅうぶどうきょう)を奉納しています。大山祇神社には、その斉明天皇奉納と伝わる唐代の国宝「禽獣葡萄鏡」が、天智天皇奉納の長命富貴鏡(ちょうめいふうききょう)とともに現在も宝物館に展示されています。そのため大三島に立ち寄り戦勝祈願したことは間違いないでしょう。

 

 しかし、斉明女帝による百済救援の志はついに実りませんでした。その中心的存在である天皇自身が筑紫ならぬ、この伊予の小市国の朝倉宮ですでに崩御されていたのだとしたら…。そのために、この年は百済への本格的な出兵が出来なかったようです。もし、この年に大規模な救援軍が出発していたら、その後の半島情勢も少し変わっていたのかな?とか思ってしまいます。 とにかく救援には間に合わないで、斉明天皇崩御されてしまったのです。

 先にも書いたとおり、大和の斉明天皇は現在、車木ケンノウ古墳に治定されていて、越智崗上陵(おちのおかのへのみささぎ)と称されています。しかし、実際の天皇陵がどこであれ『日本書紀』には、小市岡上と書かれています。まだ「越智山稜」とかの表記はありません。それは斉明天皇天智天皇当時の表記が小市だったからで、伊予の小市国(小市評)で天皇崩御されて、小市の岡の上でかりもがりを実行したからではないか、との推論も成り立つでしょう。

 そのとき天皇の喪の儀式に立ち会った近侍や兵士らの心は、天皇なき百済救援戦の先行きを危ぶんで、大きな不安感にとらえられていたに違いありません。それが朝倉山の上の笠雲の存在であり、鬼の出現ではないでしょうか。

 その後、中大兄皇子天皇の喪を宇摩郡の磐瀬行宮に運び、御宝塚(おたたからづか)で殯斂(ひんれん)の儀式を執行したのちに、天皇の喪と共に筑紫の長津宮へ、そして筑前朝倉宮に向かったのかもしれない…と考えることは、それほど突飛な話ではないように思えるのです。

 ただ、この磐瀬行宮をなぜ伊予の宇摩郡と仮定するかについては、多少の疑問を感じられるかもしれません。
 それは、朝倉宮については各地に伝承があるのに比べて、磐瀬行宮に関しては、筑紫にも土佐にも地名のほかは、伝承がきわめて少なく感じられるからです。

 それに対して伊予の村山神社には、単なる伝承や古記の写しであっても具体性のある話が残されていて、神像ほか近侍の木像70余体(腐朽しているようです)が現存し、御宝塚からは何か不明ながらも古い遺品まで発掘されています。加えて新居郡など他の地域の文書にも、斉明天皇に関連して村山神社(津根の宮)の名が記されているものが存在するのです。また『釈日本紀』も「磐瀬行宮は宇摩郡」としていますし、正規の順路であれば「御船を還す」というのはおかしいです。

 そのほかにも、このとき伊予で斉明天皇が立ち寄ったとされる地域の代表的な神社は、いずれも延喜式名神大社(伊曽乃神社、村山神社、多伎神社、大山祇神社)になっているのですが、筑紫や土佐では、皇太子だったからか、そのようなことはなさそうに思います。

f:id:verdawings:20200610172307j:plain


 
今回は通説とは異なる観点からということで、斉明天皇征西における副次的な目的について、簡単に考察をしてみました。
 もちろん、伊予説も基本的には傍証を根拠に成立している推論なので、真実がこうだと結論づけるのではありませんが、何かの参考にはなると思います。

  
*お詫び~朝倉 多伎神社の写真が違っていましたので訂正しました(06/19)

f:id:verdawings:20200610175856j:plain