鄙乃里

地域から見た日本古代史

神武東征の旅1 高千穂降臨伝説

 九州の霧島は神話・伝説の地として知られています。
 霧島山麓の高原町(たかはるちょう)にある狭野神社(さのじんじゃ)は、狭野命神武天皇の幼名)に関係がある神社とのことで、高千穂峰天孫降臨伝説があります。生誕地云々の真否は分かりませんが、実際の生誕地とされているのは狭野神社から少し山寄りの皇子原(みこばら)というところのようです。
 そして、この地から狭野命(若三毛野命宮崎市高千穂宮へ移り、東征に出発したと伝えられます。

 その狭野神社は一時期、宮崎神宮の別宮(わけみや)になっていたそうですから、神武天皇ゆかりの高千穂宮はたぶん、宮崎神宮の周辺ではないかと推測されます。「宮崎」という名も、高千穂宮のはずれとか、周辺の意味で名づけられた社名ではないでしょうか。ですから、高千穂宮は宮崎神宮とほぼ同じ場所か、あまり離れていないと思います。摂社の皇宮屋(皇宮神社)が近くにあり、宮崎神宮元宮と伝えられているので、こちらが本来の高千穂宮ではなかったかと思われます。

 その前に、記紀には天孫降臨の話が書かれていますから、そこから少し考えてみたいと思います。
 天孫降臨の比定地については、宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井の高千穂里と、霧島連峰高千穂峰とがよく知られています。ほかに福岡県の糸島説もあり、地形や地名・山名・古墳、そこからの出土品、また朝鮮半島からの距離からいっても、かなり説得力のある説になっています。
 ただ、いくつかの理由から、ここでは通説に従って現在の日向(宮崎県)説を考えてみたいと思います。高祖山(たかすやま)周辺説については、また別に改めて考察してみる機会があるかもしれません。

 まず出発点である高天原とはどこかを考えてみます。高天原アブラハムが住んでいたトルコ南部の旧タガーマ州ハランから名付けたという話を読んだことがあります。たしかにアブラハムはハランからカナンに向けて出発したようですから。なるほど、「タガーマのハラン」と「高天原」とは音がよく通じていますね。

 しかし、それはそれとして、自分は日本神話の「高天原」はあまり難しく考えません。これは単純に、高氏天氏が本拠にしていた地域(原)だろうぐらいに思っています。ですからこの高天原は移動します。そして瓊瓊杵尊が実在の人なら、その時の出発点は豊前田川郡ではないかと想像しています。『豊前国風土記』にもそのようなことが書かれていますね。

 

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 そこから降臨して最初に落ち着いた土地が臼杵の高千穂の里だったのではないかと考えます。霧島よりは近いですからね。ここにも天の岩屋や安の河原の伝承地天岩戸神社があります。でも、それだと、ここが高天原になり、瓊々杵尊天孫降臨伝説と矛盾します。なので、たぶん、それらの古蹟は後世に高天原神話に擬えたものではないかと思うのです。

 京丹後の籠神社に「天村雲命が天真名井から運んできた清水を日向の高千穂と匏宮(よさのみや)の真名井に注いだ」というのがあり、高天原の水を高千穂の真名井に注いだとしたら、高千穂の里は高天原ではないことになりますね。名勝の高千穂峡に真名井と称する滝はありますが。


 その後、時を経てから、さらに霧島の高原地帯に再移動したのかもしれません。行くなら平地は危ないですから山沿いに行ったと思います。それに宮崎県はほとんどが山ですから。途中に国見峠・椎葉の里などがあり、それからえびの高原あたりに到着したものかと想像します。何のために行ったのか分かりませんが、記紀がそう書いているのです。

 『古事記』を読むと、以下のように記されています。 

爾に天津日子番能瓊々芸命(あまつひこほのににぎのみこと)に詔らして、天の石位(いわくら)を離れ、天の八重のたな雲を押し分けて、いつのちわきちわきて、天の浮橋にうきじまりそりたたして、竺紫の日向の高千穂のくじふるたけに天降り坐しき。 

  (荻原浅雄・鴻津隼雄校注 小学館日本古典文学全集より 以下同じ)

 「八重のたな雲を押し分けて」の語句からは、山沿いの高原地帯を移動したことが想像されます。「いつのちわきちわきて」は「勢いよく」という意味もありますが、険しい道を分け分けてということでしょうか。
  「竺紫の日向の高千穂のくじふるたけに天降り坐しき」竺紫はこの場合は筑紫州(つくしじま=九州)のことでしょう。『古事記』の筑紫州は「身一つにして面四つ」と書かれ、そのうちの南九州は「熊曾󠄁」になっています。「熊」は主として熊本県南部から南のことと推定され、「曾󠄁」は、日向南部の地域と解することができるでしょう。そして霧島連峰は宮崎県と鹿児島県の県境ですが、高原町の側の高千穂峰は宮崎県ですから、この場合の「日向の襲」は宮崎県南部です。

 九州から見て日の登る方向である大和や伊勢に対して、日の出の太陽に向かっている「陽の地」九州では東南部の宮崎県(日向)が最適なので、記紀成立当時には日向の地名はすでに存在したはずです。なかったら書いていませんから。

 「くじふるたけ」は韓国の「亀旨峰に似た岳」と解釈したいと思います。

 それから『日本書紀』本文には、

日向の襲の高千穂の峯にお降りになった。皇孫のお進みになる様子は槵日の二上の天の梯子から、浮島の平らな所にお立ちになって、痩せた不毛の地を丘続きに歩かれ、よい国を求めて、吾田国の長屋の笠狭崎にお着きになった。
            (宇治谷孟講談社学術文庫より 以下同じ)

 とあり、また一書(第二)は、

天津彦火瓊瓊杵尊は、日向の槵日の高千穂の峯に降られて、膂宍(そしし)の胸副国(むなそうくに)を丘続きに求め歩いて、浮渚在平地に立たれて、…。

とあり、ほかの書もだいたい似たような内容です。

 空国(むなくに。つまり不毛の土地)を歩いた順序はそれぞれで異なっていますが、両者を合わせると「日向の襲の槵日の高千穂の峯に降り立った」となります。「襲」は「曽於」のことかと思います。「槵日」はこの場合「奇し日」で「神秘的な、霊妙な」の意味ではないでしょうか。
 二上の天の梯子」は大和の二上山から類推するのですが、二つの峯がある山を云い、たぶん霧島連峰で一番高い韓国岳(1700m)を指すのか、または高千穂峰(1574m)と御鉢が続いているので、それらを指すのかと思われます。

 『古事記』にある天の浮橋とは何でしょうか。まさか天上からの橋ではないでしょう。ひとつは(雲海)かもしれません。「うきじまり」は「浮島あり」の略ですから、山嶺が霧の中に浮かんでいる様子を想像させます。

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   韓国岳より高千穂峰を望む 噴煙は新燃岳 (霧島案内のパンフレットより)

 もうひとつは高原にある湖が考えられ、その場合は高千穂峰の麓にある御池(みいけ)を指すものかと思われます。御池の水面に高千穂峰が映っているのです。写真に撮るには格好のポイントといえるでしょう。その場合、「そりたたして」は映った山が聳え立って見える様か、もしくは、御池の畔の平地に瓊々杵尊らが山を見上げて立つ様子かと思えます。

 神武天皇の誕生地と伝えられる皇子原は御池からそんなに離れていません。そこは当初の狭野神社の場所で、そこに宮を創ったという伝承があるので、瓊々杵尊(或いは神武天皇)が降臨(到着)して落ち着いたのはこの辺り(宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田)ではないかと推察されるのです…。

 

(つづく)   

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