鄙乃里

地域から見た日本古代史

伊予の周敷神社と多治比連

 伊予の周敷神社と多治比連

 伊予国周敷郡に鎮座する周敷神社(すふじんじゃ、愛媛県西条市周布本郷)は多治比連(たじひのむらじ)らが祀る神社である。『和名類聚抄』周敷郡7郷のうちに余戸(あまりべ)があり、これが周敷郷にあたり、南海道の駅家(うまや)があったところである。

 伊予国二四座のうち桑村(くわむら)郡三座の一社に延喜式神名帳記載の周敷神社が認められ、この式内社を巡って松平西条藩の初めごろに、当社と松山藩にある桑村郡国安村(くにやすむら)の周敷神社をはじめ、円海寺村蓮宮明神、 宮之内村宮内神社との間でもめごとがあった。が、結局、延喜式にも郡の誤記例は見つかることがあるし、周敷神社はその郡内になければいけないとの理由で、神祇官領吉田家により周敷郡の当神社に裁定されて一応の決着をみた。

 しかし、そのような理由は隣の桑村郡に同名の神社がなかった場合にえることであり、吉田家のこの裁定はおかしいかもしれない。どちらかといえば桑村郡国安村の周敷神社あたりのほうが適当ではないだろうか。

 当社は周敷郡内でも駅家(うまや)がある周敷にあったから周敷神社と号されているのであり、周敷にあるのが理由というわけではない。また桑村郡も往古は周敷でなかったともいえないのである。したがって、この問題は、まだ完全には決着がついていないようである。

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愛媛県西条市周布周辺地図


 『先代旧事本紀』には「武国皇別命は伊予御城別、添三枝君の先祖」とある。武国凝別命を「筑紫水沼君の祖」としてあるが、実際は皇別武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)のことで、「御城別」は『日本書紀』から「御村別」のことだと分かる。

 そこに「添三枝君」ともある。「三枝」は、おそらく「みつえ」と読み「御杖」のことではないかと思う。この「添(そふ)」が周敷(すふ)のことだろう。したがって、周敷神社は「添神社」と同じであり、伊曽乃神社同様に、武国凝別命の地方派遣との関係がある神社ではないかと思う。
 当時は郡など存在してないから桑村郡も「添(そふ)」のうちで、それからのちに桑村郡が出来たのかもしれない。そう考えると、延喜式の云うとおり、桑村郡に周敷(添)神社があってもおかしくはないようである。

 それに対して周敷郡の周敷神社多治比連らが氏神とした神社で、正確な勧請年紀は分からないが、この地に多治比氏が来住してから創建されたものであろう。多治比連の出自は反正天皇の出生と関連があるから、仁徳朝以後のことであり、当地の多治比連もその多治比部と関係があるのかもしれない。

 周敷神社は一時期、神名を明かさない時代があったといわれるが、現在は主神が火明命で、配神が大己貴命大山祇命になっている。主神の火明命は多治比連らの遠祖には違いないが多治比連は尾張氏4代目天忍人命の兄弟の天忍男命から数世代を経た色鳴宿禰(しこおすくね)につながっていて、河内に地盤を持っていた。その色鳴宿禰が最初に多治比連を名乗っているから、多治比連は尾張氏から枝分かれした氏族であって、周敷神社はその一族であろう。配神の大己貴命は火明命とのつながりがあり、大山祇命伊予国越智氏との関連があると考えられ、越智国造の祖神も物部氏同祖の大新川命で、遠祖はやはりニギハヤヒ命である。

 河内の丹比神社(たんぴじんじゃ)は同じ多治比連の祀る神社で、神社の由緒によると祖神の火明命は瓊瓊杵尊の御子としているが、これは瓊瓊杵尊の兄の天火明命の間違いではないかと思う。多治比連は尾張氏の傍系であり、その尾張氏は『日本書紀』(一書6と8)に「瓊瓊杵尊の兄の天火明命尾張連らの遠祖」というふうに書かれているように、天照国照彦天火明命が祖神である。しかし『日本書紀』の本文に瓊瓊杵尊木花咲耶姫の子に「火明命」が登場し、これに「尾張連の遠祖」と付記があること、『古事記』に火照命がいるために混乱しているのだろうと思う。もしくは、あえてそうしているのかもしれないが。

 しかし、先の書(一書6と8)には瓊瓊杵尊の子に火明命は登場せず、火明命が二人いたのではないことが判る。この瓊瓊杵尊の子の「火明命」は実在しないと思う。『古事記』では「火照命」はいるが、「火明命」はいない。それに「火照命」は「隼人の阿多君の」と書かれているので、尾張氏の祖神とされる「火明命」の言い換えにはならないだろう。『日本書紀』をよく読めば判るが、最初は子が大勢いても最終的には海幸彦・山幸彦に収斂されている。おそらく天火明命瓊瓊杵尊の兄だとまずいので、記紀があのような造作をしてみただけのことだろう。実際は、火酢芹命(ほすせりのみこと)が隼人の先祖で海幸彦である。山幸彦は火遠理命(ほおりのみこと)またの名を彦火火出見命である。しかし、そもそもあの部分は記紀に山族と海族の神話を取り込むことで、隼人(広義にはたぶん熊襲であろう)の服属を説明している創作でしかないようである。


 河内では後代になると今度は丹比真人が丹比神社を根拠地にしている。この丹比真人は宣化天皇の後の多治比古王から始まるとされる別系統の丹比氏だが、その根拠地や尾張氏を通して多治比連ともつながりがある。丹比真人が河内に進出した頃に多治比連がそこを譲って伊予国の周敷郡に移住してきたことも考えられなくはない。

 奈良時代伊予国で多治比連は発展したと見えて、天平宝字8年(764)多治比連真國等10人に周敷連の姓を、続いて真國等21人に周敷伊佐世利宿禰の姓を賜ると、『続日本紀』にある。後には周敷郡大領も出しているが、その少し前には越智玉澄の子の益男が周敷郡大領との史料が地元に見られることから、伊佐世利は越智氏と関係がある名称かもしれない。周敷神社の宮司は現在は知らないが、最近までは伊佐芹家であったと思う。

 当社もまた天正の兵火で焼失したが、紀州連枝松平氏の時には西条藩六社の一つとして尊崇され、代参や寄進があった。


*目標の100記事を何とか達成できましたので、次回からは古代史に限らず思いついたことを自由に書いていきたいと思います。引き続きよろしくお願いします。

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