木村長門守重成~1
生きていく上で学問よりも武芸よりもだいじなものは、堪忍だぞ
木村重成(きむらしげなり)は戦国時代の歴史に興味がある人ならたいてい知っていると思うが、そうでない人にはあまりなじみがないかもしれない。ただ先年、大河ドラマ『真田丸』が放映されて、大阪城の広間に木村重成も何度か登場していたから、覚えている人もおられるだろう。
戦前のある本を見ると、事実かどうかはともかく、幼名は春千代と書かれていた。幼名を知っている人は少ないと思う。
幼名 春千代
父 木村常陸介重茲(しげこれ)
関白秀次の附家老
秀次の切腹に伴い 責を取って切腹
その春千代の父は木村常陸介重茲(しげこれ)といい、関白秀次の附家老をしていた大名だった。しかし、太閤秀吉から謀反の嫌疑をかけられた秀次の切腹に伴って、責任を取り自害したのである。いや、させられたのであろう。
そのため、まだ幼子だった春千代は、母ともに近江の馬淵村に身を隠して育てられた。そして幼年になると、父親の旧知であった近江の領主・佐々木(六角)義郷のもとに預けられ養育されることになった。
義郷(よしさと)のもとで学問武術を身につけ、やがて成長した重成は、17歳の時に義郷が烏帽子親(えぼしおや)となって元服する。
生みの母とは、あれ以来別れたきりだったが、そのころ重成の母は大阪城で宮内卿局(くないきょうのつぼね)と呼ばれる豊臣秀頼の乳母になっていた。きっかけは、たまたま大阪に逗留していたときに豊臣家の者に発見されて召し抱えられたともいわれている。
そうした縁から、元服した重成は母に呼び出され、秀頼の小姓として仕えるようになったらしい。秀頼も重成を弟のようにかわいがったといわれる。
そうこうするうち重成にも彼を慕う白妙(しらたえ)という美しい娘が現れた。白妙は真野豊後守頼包(よりかね)の娘で、淀殿の乳母を務めた大蔵卿の姪にも当たる女性である。