鄙乃里

地域から見た日本古代史

実朝公の供養塔~七重石塔婆

 愛媛県西条市福武八堂山の麓に仏生山金剛院光明寺という古くからの寺院がある。市民の森の登り口を挟んで賀茂神社と向き合っている。天正の陣で焼かれて江戸時代に再建されたが、昔は八堂山に七堂伽藍と不動明王堂があって、賀茂神社別当寺だったそうだ。


 八堂山周辺

 その寺の墓地の一区画に源実朝供養塔というものが建っている。総高322㎝の花崗岩七重石塔婆で、県の有形文化財(石造美術)に指定されている。

 説明によると、この供養塔は実朝公の没後50周忌にあたって、御台所の本覚尼(ほんがくに)が亡夫のために建立された遺髪塔だと伝えている。

 「伊予西条のこんな寺院に、なぜ鎌倉三代将軍の供養塔が? 何かの間違いじゃないのかな」と、 最初は誰もが勘ぐり、不思議に思うようであるが、石塔の制作年代も鎌倉末期ごろのようにいわれ、また歴史をひもといてみると、伝承は必ずしも創りごととはいえないことが分かってくる。

 
 建保7年(1219)正月27日の雪夜、鎌倉の鶴岡八幡宮において源実朝が甥の公曉(くぎょう)に暗殺される大事件が起こった。

 実朝の正室・北の方は坊門信清という公家の女で、実朝のたっての希望で鎌倉に下ったのだが(とはいえ、二人とも13歳ほどだった)同年代で仲睦まじかったといわれている。しかし、実朝の没後に北の方は髪を下ろして本覚尼となり、京都西八条にあった実朝の居所で隠棲することになった。そのため八条尼とも呼ばれている。そして事件から3年後の貞応元年(1222)、末長く亡夫の菩提を弔うため、その地に萬祥山遍照心院(へんじょうしんいん)大通寺を建立する。


 またその際に、遍照心院の費用に充てるためとして、伊予国の地を寺領に寄進するよう義母の北条政子に願い出、政子も積極的に援助している。大通寺文書にはその寺領は「新居郡三郷」とあり、「新居庄」とも書かれているので、郷名は記されていないが、伊予国新居郡(にいぐん)東部の新居・井上・島山の三郷の地を指しているものと思われる。

 文永9年(1272)80歳のときに書かれた本覚尼の置文には、寺領について次のように記されている。

伊與国新居庄を寄進して、ながく寺用の料庄にあてをく、すなはち鎌倉の二位家の自筆御文并に関東より此庄遍照心院へ寄せられたる御教書、調度文書を相具して、寺家におく所なり、関東御領のうち四ヶ所をばみやす所へまいらせをはりぬ、

 ここには「二位家の自筆御文」と書いてあるので、政子生存中(1225年没まで)に新居庄が本覚尼に与えられたことはたぶん間違いないと思う。

 


 しかし、本覚尼はなぜそんな遠方にある伊予の新居庄などを希望し、政子もそれを承認したのだろうか?

 その点については次のように推測する。
 平安時代までの新居郡は伊予の新居一族が名田を持ち、広く支配する地域であった。しかし源平のころになると、風早郡(かざはやぐん)の河野氏が源氏に味方し、とくに壇ノ浦で義経に従った河野通信(こうのみちのぶ)の水軍が大活躍をして源氏を最終的な勝利に導いた。その功により、河野通信は鎌倉御家人中でも上位に列せられていたのである。

 中予東予を中心とする伊予国内の御家人を統括する権限が河野通信に与えられ守護職並みの扱いをされている。そして河野通信北条時政の女(谷)を妻に迎え、頼朝亡き後も鎌倉殿には忠誠を尽くしていた。

 その河野氏の名田は当初は風早郡の河野郷であったが、鎌倉幕府の意向によって越智郡や新居郡の武家たちはみな河野氏の麾下に従ったと考えられ、建暦3年(1213)の源実朝書状でも新居郡西條庄を安堵されている。
 また同郡新居庄についても『予章記』(
長福寺本)に載る建保6年(1218 11月源実朝書状に「兼又、伊与国守護職并新居西条両庄之事」云々とあり、この書状は『吾妻鏡』や『築山本河野家譜』にも載るようなので、新居庄も同様と考えられるだろう。この書状の際には守護職も認められているようだ。


 ところが承久3年(1221)に承久の乱が勃発。河野通信は宮方に従って敗戦したため、陸奥(奥州平泉)へ流されている。宮方についた理由は諸説いわれるが、実朝事件の影響が大きいのではないかと(自分は思う。しかし、四男の通久が幕府方に味方したので河野本家はかろうじて命脈をつないだが、当然ながら河野通信の領地は、ことごとく鎌倉幕府に没収されたであろう。

河野系譜の記事次の如し。
家記に曰く。当国他国領所五十三箇所、公田六千町、一族百四十九人の所領に至るまで、これを没収せらる。

                (明比貢著『予州新居系図の研究』より


 本覚尼が遍照心院を興し新居郡に寺領を求めたのは、正にその承久の乱の翌年あたりになるのである。そのために、幕府直轄になった新居郡の土地の一部を荘園として所望したのではあるまいか。実朝が生前、信頼を寄せていた通信の旧領を進んで求めたのかもしれない。




 金剛院光明寺本堂


 ただ問題は、金剛院のある西条市福武(ふくたけ)は同じ新居郡でも西条庄なので、新居庄ではつじつまが合わないという点であろう。

 しかしそれについても、建武元年(1334)の覚園寺文書」に、西條庄八箇村のうち四箇村を遍照心院領に当てるとの記事が残されている。あとの四箇村は鎌倉の覚園寺領である。

 その文書によると福武村は覚園寺領になっているため、現在の西条市福武の金剛院も覚園寺領と間違われやすいのだが、当時の金剛院の土地は菊一村で、菊一村は「覚園寺文書」で遍照心院領になっているのである。

このうち金剛院は、遍照心院領の菊一村に属していたのであるが(それは善応寺文書中に、金剛院の古名光明寺が「西条庄内菊壱名光明寺如来堂」と見えることによる)

                           (『愛媛県史』)

 菊一村は福武村の隣なので(当時は別村でも)現在は西条市福武に再編されてしまっているのだろう。

 これらの事情から推察すると、遅くとも実朝公50周忌(1268年)の前後には、西条庄の金剛院がすでに遍照心院領であったことが窺えるだろう。

 本覚尼が文永9年(1272)80歳のときに記した『置文』には、

伊與国新居庄を寄進して、ながく寺用の料庄にあてをく、すなはち鎌倉の二位家の自筆御文并に関東より此庄遍照心院へ寄せられたる御教書、調度文書を相具して、寺家におく所なり、関東御領のうち四ヶ所をばみやす所へまいらせをはりぬ、 

とある。

 ただ、この本覚尼の置文(大通寺文書)には新居庄を遍照心院に完全に寄進し、鎌倉もそれを了承したことは書かれているが、西条庄については触れられていないようである。察するところ、その理由は西条庄が幕府の直轄地だったからではないかと考える。その直轄地を幕府の了解のもとに遍照心院と覚園寺が寺領としていただけで、新居庄とは違って本覚尼に与えられた私有地ではないため、西条庄については遍照心院に寄進しなかったということではないだろうか?  置文中の「関東御領のうち四ヶ所をばみやす所へまいらせをはりぬ」という一文が、もしかしたら西条庄のことなのかな?と、気になるところではある。

 その西条庄も南北朝時代になると、再び河野氏の所領になっていることが分かる。

『善応寺文書』に寄れば、「貞治3年、1364、3月河野通盛は所領である西条庄の光明寺如来堂並びに賀茂宮神田を河野氏の氏寺善応寺に寄進した。」とある。

                   (明比學著『西條の歴史探訪』)

 光明寺如来とは、現在の金剛院光明寺のことである。

 しかし、その後の室町時代細川頼之河野通直が争い、将軍足利義満の裁定で新居郡が細川領に決まってからは一時的に遍照心院領も復旧したように見受けられるが、地頭が力を持つようになるとやがて荘園は次第に衰微し、戦国大名の台頭とともに消滅していったようにいわれている。




 「遺髪塔」の伝承については、実朝の首級は公曉が持ち去っているので「遺髪なんて、あるわけがない」と思われるかもしれないが、実朝は鶴岡八幡宮に出かける前に頭髪一筋を残して行ったともいわれている。 

 そのとき詠まれたという道真公まがいの和歌がある。

  出でいなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな

 さし迫った運命を自ずと予感するところがあったのかもしれない。それでも将軍の威信を保ち家名を高めるためには八幡宮への拝賀は欠かせないと…決意を固めていたのだろうか。その際に残した頭髪一筋を墓に納めたとしても、一筋が必ずしも1本とは限らないし、愚管抄には後日、雪の中から御首(みしるし)が発見されたようにも書かれている。だとすれば、本覚尼が一部を手許に所持していた可能性はゼロではない。その遺髪の一部を50周忌の慰霊塔に納めたのだとすれば、まったく根拠を欠いた伝承だともいえなくなる。また逆にこちらの伝承が正しければ、実朝の遺髪は残っていたのであり、あるいは御首も発見されたのかもしれない。


 金剛院光明寺に関しては、そのほかにも興味深い記事が愛媛県史』に掲載されてい.

る。

同寺の寺伝によると、鎌倉光明寺(仁治元年=一二四〇、北条経時の開創、現浄土宗)の千体仏を模して「新居千体仏」がつくられ、前記七重石塔婆のわきの如来堂に安置されたが、今は本堂内に五〇〇体が残っているということから、鎌倉との直接関係が推察される。

 とあり、寺号も同じ光明寺であることから、鎌倉と何らかの関連性があったのかも。

 現在の金剛院は真言宗不動明王を奉るが、古くは「光明寺如来」と号しているので、この御堂に限ると釈迦如来、あるいは阿弥陀如来などを本尊としていたことも考えられる。因みに京都の遍照心院も現在は真言宗で、宝冠釈迦如来を本尊としている。


 西条の供養塔は実際に西条庄における鎌倉時代を代表する貴重な歴史遺産なのだが、後世の度重なる騒乱で建立の経緯が忘れ去られ石塔だけが遺存したために、実朝公と言われても即座には信じがたくなっているのだろう

 今もこの石塔を見ると、実朝公の魂の平安を願う本覚尼の切なる思いが、時空を超えて伝わって来るような気がするのである。(合掌)