鄙乃里

地域から見た日本古代史

ン? 大山祇神は事勝国勝長狭?

 ン? 大山祇神は事勝国勝長狭?

 また『日本書紀』に、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が笠沙岬(かささのみさき)に着いたとき一人の人物がいて、事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)と名乗った。そのため、これを大山祇神の別名だという説もあるらしい。

 この事勝国勝長狭は〈一書第四〉によると塩土老翁(しおつちのおじ)のことであるから、それなら大山祇神塩土老翁は同神だということになる。

 例えば〈一書第六〉にも、次のように書かれている。

到于吾田笠狭之御碕。遂登長屋之竹嶋。乃巡覧其地者。彼有人焉。名曰事勝国勝長狭。天孫因問之曰。此誰国歟。対曰。是長狭所住之国也。然今乃奉上天孫矣。

吾田の笠狭の岬に着き、遂に長屋の竹嶋に登る。そこでその地を巡り覧ると、そこに人がいて、事勝国勝長狭といった。そこで天孫が「これは誰の国か」と尋ねられた。答えて言うには「これは長狭が住むところの国です。しかし、今は天孫に奉ります」

 たしかに、事勝国勝長狭はこの土地の「国守」だとか、この地は「自分が住むところ」だとか書かれているので、彼はこのあたりの首長だったのかもしれない。

 しかし、そうだとしても他方で、この地が大山祇神の国だとはどこにも一行も書かれていないのであるから、大山祇神塩土老翁が同神だとは、どういう論拠に基づいて、そういうのだろうか?

 しかも、続けて、次のように記されている。

天孫又問曰。其於秀起浪穂之上、起八尋殿、而手玉玲瓏織経之少女者、是誰之子女耶。答曰。大山祇神之女等。

天孫がまた(事勝国勝長狭に)問うて言われた。「あの立派な波穂の上に広い御殿を建てて、手玉の音もかろやかに機を織っている娘は、誰の子か?」

 すると、事勝国勝長狭が「大山祇神の娘らです」 と答えているのである。自身が大山祇神なら、こんな言い方をするだろうか。ふつうは「私の娘です」と答えるだろう。つまり、大山祇神は別にいるのである。

 尚『古事記』には、笠沙岬の場面に事勝国勝長狭は登場していない。これは塩土老翁のことで、後の神武天皇に東の国(畿内)のことを教えた人物である。
  
 ついでながら、これは私見だが、そのあとに登場する火遠理命彦火火出見尊、山幸彦)なども、おそらくは架空の人物であろうと思う。『古事記』ではこれを天津彦(あまつひこ)ではなく、みな「虚空津彦」と書かれているが、これは自ら架空の人物ですよと教えるためであろう。その点は『古事記』のほうが正直なのである。

 彦火火出見尊は『日本書紀』によると神武天皇の別名でもある。第一、瓊瓊杵尊の時代にも、神武天皇の時代にも塩土老翁がいたりするのはおかしいではないか。物語といっても、塩土老翁はいったい何年生きるのだろうか? おそらく海人族(あまぞく)の神話を取り込むために、こんな伝説を長々と書き加えたものであろうと思う。

 

 

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