鄙乃里

地域から見た日本古代史

猿飛佐助と立川文庫を創った人々

 最近の若い世代は別にしても、少し年配の人なら「猿飛佐助」を知らない人はまずいないだろう。かつて講談や漫画や映画の中で「真田十勇士」の一人として神出鬼没、大活躍をした甲賀流の忍者だ。師匠は忍術名人の戸沢白雲斎(とざわはくうんさい)。伊賀流霧隠才蔵の師は百地三太夫といった。十勇士には、ほかに三好清海入道筧十蔵穴山小助などがいる。しかし、モデルはいたかもしれないが、猿飛佐助や霧隠才蔵立川文庫の創作である。

 立川文庫明治44年から大正時代にかけて大阪の立川文明堂から刊行された小型の講談本である。表紙に揚羽蝶の模様を押したもので全部で約200点がある。雪花山人、野花散人などの著者名で出版され少年層を中心に人気を博したが、とくに「猿飛佐助」のシリーズは大ヒットし出版数も伸びたらしい。
 その「猿飛佐助」の名は、四国の石鎚山猿飛橋から取ったものだという。なぜ石鎚山かというと、それは、この立川文庫を作った人たちとの深い縁がある。
 雪花山人、野花散人というのは個人名ではなく立川文庫の共同執筆名で、家族ぐるみの集団で講談本を出版していたのである。

 ことの始まりは大阪の講釈師だった玉田玉秀斎(加藤万次郎)が明治29年(1896)に四国の今治に巡業したときに、廻船問屋「日吉屋」の娘だった山田敬(やまだけい)となじみになったことである。廻船問屋のお敬の父はお敬が17歳のときに医師を婿養子に迎えて、お敬と医師の間に4男1女が生まれた。ところが、お敬は42歳のときに玉秀斎といい仲になって、子供らを残して大阪へ駆け落ちしたのである。
 そのせいで、お敬の娘(ねい)は嫁ぎ先から離縁を言い渡され、玉秀斎も業界からボイコットされて職を失った。

 そこでお敬は生活費を稼ぐため玉秀斎に速記者を付けて講談を記事にし、雑誌に連載をし始めた。そのころ離縁された寧が、幼い娘の蘭子を連れて大阪へお敬を頼って来たので、寧をその速記者と再婚させたが、これも2年ばかりで離婚して速記者が去ったのだろう。今度は書き講談を本にして出版することを思いついた。子どもたちも東京で自立した一人を除いて全員を呼び寄せ、家族ぐるみで講談本の制作に関わったのである。

 当初は引き受けてくれる出版社もなかったが、お敬の熱心な売り込みで立川文明堂が引き受けてくれることになり、ここに大衆文学、立川文庫誕生の運びとなったのである。長男の山田阿鉄(おてつ)も読み物講談作家となって活躍し、立川文庫の出版は大いに当たって当時のブームとなった。
 玉秀斎やお敬の死と共に文庫もやがて終わりを迎えたが、「猿飛佐助」はベストセラーとなり、他の多くの有名作家も取り上げている。

 寧の娘の池田蘭子はのちに美容師となり、作家になって、小説『女紋』の中でここに書いたような立川文庫誕生の事実談を発表している。

 現在、今治図書館には立川文庫の資料があり、JR今治駅前にも猿飛佐助の銅像が建っている。いったんは今治と決別したお敬だったが、没後には故郷に葬られたようで、駅前にある銅像の銘板には長男山田阿鉄も今治市内の観音禅寺に葬られているとの説明が添えられている。

 立川文庫表紙の揚羽蝶は廻船問屋「日吉屋」の女紋であり、その今治からもほど近い石鎚山系に「猿飛佐助」の猿飛橋があった。今治を離れても故郷への思いだけは忘れていなかったのだろう。
 筆者も立川文庫は読まなかったが、そこから取材した読み物や漫画により立川文庫を大いに楽しませてもらった世代である。


f:id:verdawings:20201117133919j:plain