鄙乃里

地域から見た日本古代史

私説 伊勢神宮遷座物語 外宮の神様ってだれ?(1)

 私説 伊勢神宮遷座物語 外宮の神様ってだれ?(1)

 天照大神は『日本書紀』によると垂仁天皇の御代に倭姫を御杖代として宇陀の篠幡・近江国・美濃をめぐった後、伊勢に鎮められたとしています。平安時代の『皇太神宮儀式帳』や鎌倉時代の『倭姫命世紀』では、この間にもいろいろな適地を探しながら旅して、最終的に伊勢にたどり着いたように書かれています。

 ただし、その宮が最初から今の内宮の場所にあったかどうかは分かりません。最初から適地を見つけるのは難しいものです。倭姫が最初に留まったのは磯宮でした。その名の通り比較的海に近い場所です。「常世の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり」からいっても当然の場所かもしれません。

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 それからしばらくして五鈴川の川上にも行ったようで、瀧原宮に遷ったのかもしれません。今の山田原の外宮の場所も、変更されていなければ、ひとつの可能性があるでしょう。

 最初の大神主は天村雲命の子孫
 外宮は豊受大神をお迎えするときに初めて造営されたように言われていますが、当初は内宮も外宮もなかったはずですから、実際のところは分かりません。これは『止由気宮儀式帳』や『倭姫命世紀』の説明とは全然異なりますが、それは史料の中身よりも年代をあまり信用していないからで、今の内宮は、もう少し後代に造られたものではないかと想像しています。

  豊受大神の伊勢への遷宮雄略天皇22年と伝えられているので、天照大神が伊勢に遷られてから、多分200年ぐらい(500年はとても)経てから豊受大神が迎えられたものと推測されます。上述のとおり、そのとき外宮が初めて造営されたような説明があるために、雄略天皇当時から内宮・外宮に分かれていたかのような印象を受けますが、これも後の人が忖度して書いたものですから、まったく当てになりません。当時は、度会の宮と呼び、神宮と称していただけで、両大神が同殿に祀られていたことも、通説とは違いますが、考えられるでしょう。

 というのも、神社の祭殿の千木には内削ぎと外削ぎという二様式があり、鰹木の数も奇数と偶数に別れています。外宮正殿の様式は外削ぎで鰹木は9本と奇数です。これは男神を表すとされていて、当時の様式を現在もそのまま踏襲しているのかもしれません、当初は天照・豊受両大神が同殿に祀られていた可能性も十分ありうるのです。今でも外宮を先に参拝する慣わしがあるのは、外宮(当時は神宮)の神殿が先に存在したからではないのでしょうか。

 内宮と外宮
 神宮が内宮と外宮に別れた正確な時期は不明だろうと思います。天武天皇の時代には二所大神宮という表現が見られるので、この時代にはすでに現在と同じ宇治の内宮があり、二大神が別々に祀られていたのかもしれません。何らかの理由があって二所に別けられたものと考えられます。それでも二所大神宮とあるだけで、まだ内宮・外宮とは記されていないような感じも受けます。

 古事記』の「天孫降臨」条には「登由宇気神、此は外宮の渡相に坐す神なり。」の記述があるため、古事記の書かれた時代にはすでに外宮の呼称があったことも考えられますが、この記事は後世の追記の可能性が大きいとの指摘もあります。また『二所太神宮神名秘書』によると、内宮・外宮の呼称は村上天皇(在位946~967)の御代から始まったようにも書かれています。なので、内宮・外宮はもっとのちの通称だったかもしれず、今でも正式には、内宮・外宮といった呼び方はしていないようです。

 酒殿の神

 外宮の所管社・御酒殿の神は今は誰とも説明されていませんが、神道書には、丹波与謝郡比治山の真名井にいた月から来た天女で善い酒を醸す竹野(たかの)郡の奈具社の神だと書かれているので、これは『丹後国風土記逸文に載る豊宇賀能売(とようかのめ)だと思われます。

丹後の国の風土記に曰く、丹後の国丹波の郡、郡家の西北の隅の方に比治の里あり。此の山の比治山の頂に井あり、そ の名を間奈井(まない)と云う。
今はすでに沼と成れり。この井に天女八人 降り来て、水浴みき 
…中略…
やがて衣裳(きもの)ある者は皆天に飛び上りき。

 しかし、里人に衣装を隠された一人の天女は帰ることが出来ず、この地に留まって各地をさまよい、終には竹野郡奈具社の神として祀られたという話です。
 本当はもっといろいろ細かな話が書かれていますが、

斯(こ)は、謂はゆる竹野郡の奈具の社に座す 豊宇賀能賣命なり。

と、結んでいます。

 その神がどうして外宮の御酒殿に祀られるようになったのかを考えるに、もちろん「善い酒を醸す」からでしょうが、それだけでは十分とは言えないように思います。

 そのため、この伝説の天女たちとは、現実の話としては北九州地方から丹波の与佐宮に豊受大神を奉斎してきた織女たちではなかったのかと考えたのです。同時に、この地方に稲作や機織りや養蚕の技術を広めた人たちではなかったかと…。

 丹波は絹織物の産地
 その方面の記事によると、丹波は古くから絹織物の産地として知られ、きもの生地の生産では全国の6割近くを占めているとのことです。京都西陣の技術を取り入れた丹後縮緬は有名です。 
 その絹織物は漢の時代に中国大陸から北九州に伝来したと思われ、丹波地方はその北九州と弥生時代から交流があったようにいわれています。稲などの穀物はその土地の耕地面積にも左右されるため生産量に違いが出来ますが、養蚕や機織りはそれほど面積の制約を受けません。また伝説から考えると、彼女らは酒造の技術も伝えたのかもしれません。ほかにも丹後は海の幸に恵まれている土地柄です。

 しかし、これらの産業を広めた後、ほかの織女たちはやがて天上(故郷あるいは天国)へと旅立っていったのでしょうか? 豊宇賀能売だけは何らかの理由で当地に留まり、機織りや酒造などをしながら、豊受大神に奉仕していたのかもしれません。そうして、やがて丹波で生涯を終えて、その後に奈具社の神として祀られていたのではないでしょうか。実際のところは知るすべもありませんが、このように考えると理解がしやすいと思います。

 豊宇賀能売と豊受大神
 その豊宇賀能売が外宮の御酒殿の神として祀られるようになった理由は、酒造の神であると同時に、何よりも豊受大神との親密な関係があったからに違いありません。「豊宇賀能売」は、豊受大神に仕える女性にぴったりの名称といえるでしょう。

 ただ、その時代にすでに御酒殿があったのかどうかは疑問で、おそらく豊宇賀能売も同殿に祀られていたのではないかと想像します。その豊宇賀能売は月の宮殿から来た天女だそうで、人々に様々な産業を伝えたからでしょうか、保食神の分身つまり大宜都比売とか稲妻が変じた倉稲魂神だとか考えられて、人々に食物を提供してくれる神様、つまり御饌津神だと言われるようになります。

 『古事記』には「和久産巣日神。此の神の子は豊宇気毘売神と謂ふ。」と書かれているため、神話上で豊受大神和久産巣日神の子となっているのですが、『シンポジウム 伊勢神宮』(人文書院1993)という本に『豊受皇大神宮御鎮座本記』の酒殿神の項に「酒殿ワクムスビの子豊宇賀能売がいます。それは丹波国竹野郡奈具神社これなり」と記されていることが紹介されています。その本では「タカミムスヒの子」となっていましたが、原典を確認すると「ワクムスビの子」と書かれていたので、修正しています。

 これなどを見ると、和久産巣日神の子はやはり保食神のほうがふさわしいと考えられていたようです。なので、豊受大神と豊宇賀能売が混同された結果により、もしかしたら『古事記』が誤ってそう書いているのかもしれないと、勝手に憶測しています。

 これが『古事記』の言う通りだとして、豊受大神がもし伊勢神道でいう天御中主神とか国常立神だったとしたらどうでしょう。それらの神は和久産巣日神の子になってしまいますよね。神話では和久産巣日神伊弉諾伊弉冉命の子なんですけど。そうなると『古事記』の日本神話はもうめちゃくちゃです。

 だいたい豊受大神天御中主神説とかは、鎌倉時代に内宮と外宮の間で軋轢があって、外宮の優位性を強調するために一部で考え出された説という話も『シンポジウム』には載っています。このような争いは幾時代かにあったようで、関係者による批判記事までが残されています(『陽復記』1710年刊)。

  豊受大神の御饌津神化がすすむ
 もちろん、その豊宇賀能売ら織女たちが奉斎してきた(と考えられる)豊受大神自身もそのような恵みをもたらす神様なのですが、同時に、この神には母神としての性格があったのです。しかし、次第にこの豊宇賀能売と混同されるようになったことで、母神としての性格よりも、むしろ御饌津神としてのウエイトのほうが大きくなっていったのではないかと考えられます。そのことは、当初は両大神に加えて豊宇賀能売も同殿に合祀されていた可能性を示唆しているのかもしれません。

 豊受大神伊勢神宮に迎えられた理由として、『止由気宮儀式帳』には、雄略天皇の夢に天照大神の御神託があり、

しかれども吾一處にのみ坐せば甚苦しく、しかのみならず、大御饌も安く聞食さずて坐ます故に丹波国の比治の真奈井に坐す我が御饌都神等由気大神を我が許に欲す。

とあり、『倭姫命世記』には

皇太神、吾一所耳坐さば、御饌も安く聞食さず、丹波国与佐の小見比治の魚井原に坐す道主の子八乎止女の斎奉る御饌都神止由気太神を、我が坐す国に欲し

となっています。異なっているのは「道主の子八乎止女の斎奉る」が入っていることです。

  「道主」とは丹波道主命のことと思われ、垂仁天皇のときに、皇后の狭穂姫命が丹波道主命の女5人を後宮に入れることを進言しています。そして5人のうちの竹野媛は本国に返されましたが、そのうちの日葉酢姫命は后となって景行天皇・倭姫らを産んでいます。また「八乎止女」とは『丹後国風土記』がいう8人の天女を指すと思われ、これらの天女が豊受大神を奉斎してきた織女たちだったのではないかと考えます。この中には豊宇賀能売も入っているはずで、本国に帰された竹野姫の生涯は『丹後国風土記』の竹野郡の豊宇賀能売を想起させるのです。それなら、これらの天女「八乎止女」は倭姫の母の姉妹らを指して云っているのかもしれません。
 籠神社の海部氏も先祖が丹波国造を名乗っていますから、「道主」と「国造」はつながりがあることも考えられるでしょう。

 この神託には「食事も安らかでない」とか「御饌都神を呼んで欲しい」とかありますが、それ以上にここで天照大神が告げているのは「自分だけが一所にいるので息苦しい」ということだろうと思います。何も食事をしたいという意味だけではないようです。志摩半島も近いのですから、この地は「御饌」が豊富です。最初は必ずしも「御食」が目的ではなかったのかもしれません。
 天照大神が神託で「自分は一處にだけいるので苦しくて食事も安らかでないから、真名井原にいる大神をここに呼んで欲しい」と教えているのだから、最初は同殿でなくても、せめて同宮内でないと、最初から川を隔てて5㎞も離れた別宮に祀られていたとしたら、迎えた意味などないだろうと私的には思うんですけどね。

 もっとも、現実的な話としては、神様が、しかも200年も経ってからそんなことを言われるはずもないだろうから、すべては祀る人間のほうに何かの都合や思いがあってのことなんでしょうね。政治や経済の問題でもあるとともに、心の問題でもあります。何かよくないことが起きると、あの神様を粗末にしているからではないかとか、今でもよくありますよね~。

 もう一つは、神宮の大神主が天村雲命の子孫であったことから、籠神社との関連が窺えるかもしれません。

 


(つづく)

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