真名井神社の女神はどこから来たか?
籠神社(このじんじゃ)宮司家の所蔵になる『海部氏系図』は古代の形式を持つ竪系図で、貞観年間(859~877)の書写とされる海部氏本系図と江戸時代書写の勘注系図をいいます。内容は他の二系図に比べて数百年も過去の時代に遡るもので、その意味から、現存する日本最古の古系図とも呼ばれるようです。
ただ『海部氏系図』は以前に必要があって少し検討してみたことはあるのですが、実は、自分はそれ以来見ておらず、詳しいことはほとんど分かりません。なので、ここでは系図については触れません。
その代わりに、籠神社のホームページを読んで疑問に感じられた事柄について若干の検討を加え、かつ祭神についての私見を述べてみたいと思います。
籠神社ホームページから、問題の個所を抜粋してみます。
別名を天照国照彦火明命ともいい天孫邇邇藝命の兄弟神。天祖から息津鏡・邊津鏡を賜り、海の奥宮である冠島に降臨され、丹後・丹波地方に養蚕や稲作を広め開拓された神様。
御由緒
両大神(天照・豊受)が伊勢にお遷りの後、養老三年に本宮を奥宮真名井神社(吉佐宮)の地から、現今の籠神社の地へとお遷して、社名を吉佐宮から籠宮(このみや)と改め、天孫彦火明命を主祭神としてお祀りしました。
籠宮(このみや)名称起源
別名を彦火火出見命とも云われた彦火明命が、竹で編んだ籠船に乗って、海神の宮(これを龍宮とか、常世とも呼びます)に行かれたとの故事により、社名を籠宮と云うと伝えられています。
このように書かれているのですが、これは記紀の内容と比較して、3つの相違点が指摘されます。
その1 主祭神の彦火明命は「別名を天照国照彦火明命ともいい、天孫邇邇藝命の兄弟神」としています。しかし、その一方で、「別名を彦火火出見命とも云われた彦火明命が」とあり、「竹で編んだ籠船に乗って、海神の宮に」と書かれています。この記事からは、後半の彦火明命が『日本書紀』の邇邇藝命とコノハナサクヤヒメの子を指しているように受け取れるでしょう。つまり、同じ火明命といっても、別人です。
その2 「別名を彦火火出見命とも云われた彦火明命が」とありますが、彦火火出見命と火明命は違います。彦火火出見命は火遠理命(ほおりのみこと)のことで、火明命ではありません。
その3 籠船に乗って海神の宮に行ったのは、その火遠理命(彦火火出見命)なのですから、つまり、火遠理命の故事から社名を籠宮と称するようになったと解釈されます。とすると、籠神社の祭神は火遠理命ということになってしまうのですが、それでも彦火明命としています。それに、神社の名称起源についても「祭神が籠に乗って雪の中に現れた」という異説もあるようです。
神社の由緒に、なぜこんなことが書かれているのでしょうか? たいへん疑問に感じられます。
吉佐宮(よさのみや)と呼ばれた元伊勢が、籠神社に名称変更された経緯については、次のように説明されています。
両大神が伊勢にお遷りの後、養老三年に本宮を奥宮眞名井神社(吉佐宮)の地から、現今の籠神社の地へとお遷して、社名を吉佐宮から籠宮(このみや)と改め、天孫彦火明命を主祭神としてお祀りしました。
これを見ると、養老3年になって祭神が彦火明命に変えられているようです。ということは、海部氏の祖神は天照国照彦天火明命でもなく、火遠理命でもなく、瓊瓊杵尊の子の火明命?
それならなぜ、別名を天照国照彦火明命とか、彦火火出見命とか、紛らわしいことを混ぜて書いたりするのでしょうか? 疑問といわざるをえないでしょう。
籠神社の由緒どおりに解釈すると、天照国照彦火明命=彦火明命=彦火火出見命=海部氏の祖神となり、海部氏の祖神は記紀の内容に従えば神武天皇の祖父でもあるということになります。それなら、記紀でも天照国照彦火明命を神武天皇の祖父とすればいいのではないでしょうか。どうして記紀はそれを隠すのでしょうか? 神社の由緒にそのまま従えば、神武天皇の祖父の彦火火出見命は瓊瓊杵尊の兄弟で、海部氏の祖神? 籠船に乗って海神の宮に行ったのは天照国照彦火明命? これは甚だおかしいです。また、籠神社の説明が正しく、記紀の話のほうが創作なら、なぜ、ここに瓊瓊杵尊の名を出してくるのでしょうか?
籠神社の旧社である匏宮(よさのみや)は、そもそも豊受大神が祀られていた聖地です。その後に豊鋤入姫が笠縫村から天照大神をお遷しし、吉佐宮(与佐宮)として4年間この宮で祀られていたと由緒に書かれていますから、祭主が海部氏であっても、初めの匏宮(よさのみや)は、現在の籠神社とは直接の関係がありません。
したがって「天祖から息津鏡・邊津鏡を賜り、丹後・丹波地方に養蚕や稲作を広め開拓された神様」は、彦火明命ではなくて、実際には豊受大神及びこの神を奉斎してきた人たちだったということになるのではないでしょうか。
しかし、この豊受大神は非常に不可解な存在で、どういう神様であるか知っている人はまずいないでしょう。御饌津神のほかには天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・國之常立神(くにのとこたちのかみ)ともいわれますが、それらは古来の神名を単に並べただけのことで実体は何も浮かびません。保食神(うけもちのかみ)・大宜都比売命(おおげつひめのみこと)・倉稲魂神(うかのみたまのかみ)は食物を司る神や稲魂なので、自然に御饌津神に比定されただけでしょう。
豊受大神は「トヨウケビメ」とも言われます。ですから、女神と考えられ、独り神である天御中主神・國之常立神であるはずもなく、隠れ神が女神になって顕現したりすることもありません。
また「大神」と称されているので、天照大神に匹敵するような神様だと思われますが、倉稲魂神はともかくも、保食神・大宜都比売命などが大神と呼ばれるのはいささか役不足でしょう。
では、この○の中に入る神は誰なのでしょうか。
その点について既成概念を除外して考えてみるとき、一柱(ひとはしら)だけですが想い浮かぶ女神がいます。それは、高皇産霊神の女の「萬幡豊秋津師比売命(栲幡千千姫命)」です。
「栲」は白妙、「幡」は織物、「豊」は満ち足りるなどの美称、「秋」は稲をはじめ穀物の実りの季節でもありますが、「蜻蛉(とんぼ)の羽のような薄い上質な布か」という見解も見受けられるようなので、絹織物でしょうか。このような神名からは、萬幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめ)が稲をはじめとする五穀豊穣や機織を司る神様ではなかったかと想像できます。もちろん、ほかにも多様な解釈が可能でしょう。「萬幡」は「八幡」と同じ意味にも取れますし、「豊秋津」は豊の国と筑紫国を指し、のちには「秋津島」が大和国の美称になったとも解釈できます。
ですから 豊受大神の「豊」はこの豊の国を意味し、豊の国から丹波地方に招来した神様の別称とも考えられるでしょう。豊の国とはのちの豊前・豊後のことですが、とくに福岡県の田川郡から大分県の中津・宇佐の地域が注目されます。「豊の国」ですぐ思い浮かぶのは福岡県田川郡香春町に採銅で知られる香春岳(かわらだけ)があります。また香春岳と行橋市との間には京都郡「みやこ町」もあります。
豊前風土記に曰く、宮こ(漢字がない)の郡。古(いにしえ)、天孫、此(ここ)より發(た)ちて、日向の舊都(きうと)に天降(あまくだ)りましき。
(岩波書店『日本古典文学大系』)
とあり、天忍穂耳命を祀る英彦山も近く、天祖・皇祖・天神らは、この辺りに居していたことが考えられるのです。豊前には天照大御神を祭神とする神社がたくさんあります。もちろん県境などないので筑紫の方とも往来していたと思われますから、萬幡豊秋津師比売命は、元は豊の国から筑紫国の人だと考えていいと思います。
香春岳の「かわら」は筑後の高良山の「こうら」と同じ意味で、神仙思想からいうと「殻」「甲羅」の意味かもしれません。これは「卵」や「匏(ひさご)」とも通じるもので、新羅の始祖神話などと類似性が考えられるでしょう。
籠神社でも当初の宮を「匏宮(ひさごのみや)」とし、「よさのみや」と呼んでいます。天香語山命が真名井の水を瓢簞に汲んで大神をお祭りしたからとかいう話があるそうです。天村雲命が天真名井から運んできた清水を日向の高千穂と「匏宮」の真名井に注いだのだそうです。籠神社の「籠(かご)」も中身が空っぽな容器ですから「殻」や「甲羅」と同種のものではないでしょうか。「匏」をなぜ「よさ」と呼んだのかは知りませんが。
たぶん、その昔、北九州から萬幡豊秋津師比売命を奉斎してきた人たちが、天橋立のある丹波(のち丹後)地方に居住して稲作や養蚕を広めたのだろうと推測します。そしてこちらではその名を「豊受大神」の名で呼んだのではないかと考えます。萬幡豊秋津師比売命はそのような産業を広めるにふさわしい神様です。「天祖から息津鏡・邊津鏡を賜り」とあり、邊津鏡(学名 内行花文昭明鏡 前漢時代)、息津鏡(学名 内行花文長宜子孫八葉鏡 後漢時代)と宝物の写真が公開されています。その事実は、前漢の鏡を賜ったころには、天祖らが豊の国や筑紫国に在住していたことを示しているのではないでしょうか。また、織女らが丹波に来たのは早くても後漢以後のことになります。崇神天皇の時代だという話もあります。
「その御縁故によって第十代崇神天皇の御代に天照大神が倭国笠縫邑からお遷りになり、」とあり、崇神天皇の皇女の豊鋤入姫が天照大神を「匏宮」に遷して一緒に祀られたのは、崇神天皇の御代のこととしています。それを「吉佐宮」と称していますが、『倭姫命世紀』には豊受大神の丹波降臨も同年のことだと書かれています。また、それによると倭姫は吉佐宮から出立したのではないようです。4年後に天照大神を吉佐宮から動かしたのは同じ豊鋤入姫で、倭姫へのバトンタッチは、もう少し後のように書かれています。後世の神道書なので真否の程までは分かりません。
ところで、ここにいう「その御縁故」とはなんでしょうか? 察するに、これは豊受大神と祭主・海部氏の縁故というよりは、豊受大神と天照大神の縁故を指すものと思われます。豊受大神と天照大神とは元から縁故関係にある神様だということでしょう。
籠神社の「籠」は「こもり」とも読みます。過去の史料には「こもり」とルビを振ったものも多いです。中には「籠守」と書いたものもあります。籠神社奥宮の真名井神社(吉佐宮)の豊受大神は「こもり」とも称されているようです。ですから、「こもり」は「籠もる」の意味もありますが、「子守」の意味もあるでしょう。
愛媛県西条市の伊曽乃神社の隣接地にも古茂理神社という小さな神社があります。古くからの地元の神様とされていますが、この神社は、安産・育児の神様として信仰されています。ですから、「古茂理」はおそらく「子守」の意味でしょう。しかも祭神は、コノハナサクヤヒメが祀られています。コノハナサクヤヒメは彦火明命らの母神です。この彦火明命が籠神社の由緒のように瓊瓊杵尊の兄の天照国照彦火明命と同神でもあるとしたらどうでしょうか。母神は誰になるでしょうか。
よく留意しなければならないことは、伊曽乃神社にも天照大神が祀られているという点です。荒魂(あらたま)なので荒祭宮(あらまつりりのみや)の瀬織津姫ではないかという人がいるのですが、当時の荒魂は天照大神の単なる分霊の意味ですから、後代になって言われるような祓戸神ではありません。その天照大神と古茂理神社のコノハナサクヤヒメが隣接する境内に祀られているのです。それは丹後の籠神社が伊曽乃神社では都合があって古茂理神社と変名され、祭神も都合で彦火明命の母コノハナサクヤヒメに変えられているのかもしれません。籠神社も都合があって、あいまいな「彦火明命」にしているのかもしれないのです。
いずれにしても「籠(こもり)」が「子守」の意味でもある一例でしょう。つまり「こもり」の神は母神だという証拠です。豊受大神は女神であると同時に母神なのです。
籠神社の相殿には豊受大神・天照大神・海神・天水分神が祀られているそうです。海神は祭主が海部氏なので、それこそ祖先神かもしれませんし、両大神が伊勢に遷った後の一時期は、養老3年まで彦火火出見命を祀っていたとかいう話ですから、その訪問先の竜宮と関連があるのでしょう。天水分神(あめのみくまりのかみ)は天真名井の水を分水したことから祀っているのではないかと想像できます。
次は籠神社奥宮と関連があるので、このまま寄り道して、伊勢の神宮について少し書いてみたいと思います。