鄙乃里

地域から見た日本古代史

嵯峨天皇の乳母

 嵯峨天皇の乳母

 『日本文徳天皇実録』のもう一人の女性、嵯峨天皇乳母のほうも、神野郡の出身です。

 『続日本紀』に短い一文が出ています。

延暦十年(791)正月甲戌【十三】》甲戌。大秦公忌寸浜刀自女賜姓賀美能宿禰。賀美能親王之乳母也。

 これによると、乳母の別名は浜刀自女(はまのとじめ)とも言ったようです。賀美能親王嵯峨天皇)の乳母を勤めたので、たぶん、その功績によるものでしょうか、延暦十年(791)に賀美能宿禰(かみのすくね)の姓を賜ったと記されているわけです。

 ここにある「浜」とは西条市の大浜のことかもしれません(?) 「大秦公忌寸(うずまさのきみのいみき)」とありますから秦氏の女性だったのでしょう。秦氏長岡京平安京の遷都に際して、朝廷に多大の貢献をしているようです。


 ところで、新居浜市大生院というところにも正法寺という歴史の古い寺院があります。その由緒によると、正法寺は上仙を開基とし、同族の秦氏が氏寺として建てた寺だと言われているそうで、元は石鎚蔵王権現別当だったとも伝えています。

 そこには、次のようにも書かれています。

この賀美野宿禰が退官して当地に帰郷し、天皇の許しを得て、秦氏の氏寺として建てたのが正法寺だといわれております。 

 上仙と秦氏である賀美野(神野)宿禰が同族だということは、上仙は越智姓ですから、父祖のどこかで秦氏との姻戚関係があったのかもしれません。

 その女性、賀美野宿禰はもちろん嵯峨天皇の乳母ではありますが、同時に「神野采女正(かみのうねめのかみ)」といって嵯峨天皇時代に采女司の長官も務めており、退官後は、その子孫の代々が新居郡大生院早川村の地頭だったらしく、伊予小松藩の『小松邑志』にもそのように書かれています。

 それから、壇林皇后(橘嘉智子)の父、橘清友伊予国司だったことがあるようです。また弘仁2年(811)新居浜市の一宮神が正一位に叙され嵯峨天皇の神額を献じられたときにも、清友の同族の橘清正という人が勅使となり、このときに実遠が越智姓を改めて橘姓としたとされ、これが伊予橘氏の始まりとも言われています。しかし、この橘清正は、『予章記』のほかに「神道集」に出てくる橘長者の話以外にはほとんど聞かない名前なので、実在の人物かどうかまでは確認できません。が、このように多方面において一宮神社(いっくじんじゃ)と嵯峨天皇の親密な関係が窺えることは事実です。これらのことから、嵯峨天皇は上仙菩薩の生まれ変わりであり、壇林皇后は橘の嫗の生まれ変わりであると…、このような仏教説話が誕生したのかもしれませんね。

 そして、これらの説話において両者を結びつける重要な役どころとして、嵯峨天皇の乳母で「采女正」でもあった賀美野宿禰という秦女が存在しているわけです。采女ですから地方の端麗で教養のある女性が登用されたと思いますが、伊予の神野郡と中央の平安京を結びつけるその媒体としては、上述の橘氏、あるいは太秦あたりの陰の実力者秦氏が絡んでいたことも想像されそうです。

 伝燈大法師の書状に「山城国百姓秦忌寸刀自女を中心とする31名が誓願を発して、宝亀3年(772)から延暦十一年(792)まで21年間、毎年春秋に朝廷のための悔過修福(けかしゅふく)の仏事を営んだので、得度を許可されたし」との文章があるそうで、これらの秦氏の一団ではないでしょうか。

 この乳母の話は史実です。


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