十城別王の軌跡
長崎県の平戸に志々伎神社(しじきじんじゃ)がある。ほかにも九州にいくつかの分社があり、対馬にも王を祀る神社があるそうだ。
志々伎神社の主祭神は十城別王(とおきわけのみこ)で、沖ノ宮は、その十城別王の陵所だと伝えられている。
十城別王が平戸に祀られている理由は、十城別王が神功皇后の三韓征伐(新羅遠征)に軍大将として従軍したからである。
『日本書紀』によると、仲哀天皇の2年、熊襲(くまそ)が叛いて貢納しなかった。そこで足仲彦尊(仲哀天皇)は熊襲征討のため紀伊国から穴門(山口県)に入り、豊浦津に至った。そのころ敦賀に留まっていた気長足姫尊(神功皇后)も豊浦津で落ち合い、そこに豊浦津宮(長府の忌宮神社の地に比定されている)を建てて居を構えた。
仲哀天皇の在位期間は記紀で2年の相違があるが、いずれにしても、熊襲討伐のため天皇自らが筑紫の橿日宮(かしひのみや)に移ったのは「書紀」によると崩御の前年のことであり、その間に3年なり、5年なりの準備期間があったわけである。
仲哀天皇の「南国巡幸」と言われるのは、この期間に天皇と皇后が竜船で瀬戸内海を巡行した旅のことだろうと思う。仲哀天皇夫妻が伊豫の湯を訪れたことが『伊豫国風土記』に記されている。とはいっても、その旅の目的は、単なる物見遊山だけではなかった。天皇が穴門に移ったのは熊襲討伐が目的だったからで、そのための援軍を瀬戸内海の各地に求めただろうと思う。
そのときに立ち寄った場所の一つに、伊予別や御村別(みむらわけ)の支配地が存在する伊予の沿岸地方があったと考えられる。その理由のひとつとしては、伊予国に仲哀天皇の異母弟である十城別王が居住していたからであり、もうひとつには東予の神野国に古代「伊豫の湯」が存在したからである。
そのころ十城別王が居住していたのは伊予国内の和気郡(現在は松山市内)と呼ばれる地域だったと推察される。『日本書紀』によると十城別王について、
このように記されていて、この 伊予別とは、のちの和気郡を指すと思われるのである。伊予和気郡には十城別王の伝承が残っている。古事記では「登袁別(とおのわけ)」と書かれているが、同じ土地を指しているもののようである。
また「伊豫の湯」は、道後温泉を通説としているが、実際地は西条の熟田津石湯であろうと思う。旧西条市は新居浜市とともに新居郡以前は神野郡と称して、のちの御村別の発祥地であり、『日本書紀』に「武国凝別命は御村別の祖」と書かれている土地である。西条市の伊曽乃神社の由緒によると、成務天皇の御代に景行天皇の皇子である武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)が国土開発のため当地を訪れて天照大神を奉祭し、その子孫が御村別と呼ばれるようになった。古事記では「伊勢之別」と書かれているのが、当地のことと思われる。倭姫の甥であった武国凝別命が伊勢から天照大神の分霊を奉祭してこの地に到着したことから「伊勢の別れ」と書かれているのだろうと察する。一方、先に同じ倭姫から草薙剣を授かり東征したのが、武国凝別命の異母兄である日本武尊(小碓命)だった。つまり、この時代は卑弥呼の邪馬台国に続く、倭王権による全国統治の草創期であり、その日本武尊の子が仲哀天皇と十城別王なのである。したがって、武国凝別命はこの二人の叔父にも当たるわけで、この地に、熟田津と古代「伊豫の湯」が存在したのである。
こうした関係から、仲哀天皇夫妻は南国巡幸の途次において間違いなく、この両地に立ち寄ったものと推察される。また新羅遠征を終えた神功皇后が倭(やまと)への帰路において熟田津に行宮(のちの石湯八幡宮の地)を営んだのもそのためである。その際に武内宿禰が新羅から持ち帰った橘の実を植えたとされるのが、地元伝承による斉明天皇の橘木だろう。そのため、この地域が橘の里と呼ばれるのである。
十城別王は、『日本書紀』に「日本武尊と吉備穴戸武媛の子で伊予別の祖」とある。その伊予の和気郡には阿沼美神社(あぬみじんじゃ)という式内社があり、ここは武国凝別命と十城別王の宮跡だといわれている。これからすると、武国凝別命は神野郡(旧西条市・新居浜市)周辺が本拠地だとしても、その子孫は和気郡にも進出していたと考えられる。滋賀県大津市の三井寺に所蔵される智証大師円珍の「和気系図」には、以下の系譜が記されている。
武国凝別命……水別命……十城別命
この系譜の十城別命は十城別王と同じだと思う。
水別命は武国凝別命の実の男子と考えられるが、十城別王は日本武尊の子なので、この系図では叔父の子である水別命の養子にされているのかもしれない。それで、阿沼美神社の伝承も納得がいくのである。
仲哀天皇夫妻は、伊予でまずこの十城別王を訪ねて、熊襲征討の援軍に誘ったと思われる。それから王の案内で、叔父である武国凝別命の本拠地を訪れた。そのころ武国凝別命が健在であったかは不明だが、その子息らの支援は期待出来ただろう。
西条の櫟津(いちいづ)には、そのとき仲哀天皇が櫟(いちい)の木で笏を作った伝承が残されていて、天皇が行宮とした御門(みかど)という地名もある。下島山の飯積神社の祭神には足仲彦尊と気長足姫尊とともに十城別王も祀られている。『伊豫国風土記』にある仲哀天皇夫妻が伊予の湯を訪れた記事もたぶん、このときの出来事だろう。
伊予では、そのほかにも越智郡に立ち寄って小千氏の出兵を求めたり、武卵王(たけかいこのみこ)のいる西讃のほうへも足を伸ばしたかもしれない。武卵王は十城別王の実兄であり、同じく仲哀天皇の弟でもあるが、出軍したかどうかは不明である。
このような経過をたどって仲哀天皇夫婦とともに、十城別王も伊予から筑紫の橿日宮へと移り、その後に熊襲と戦ったものと想像される。
しかし、熊襲征討は容易でないばかりか、事もあろうに仲哀天皇が流れ矢に当たって落命してしまった。記紀の異常な亡くなり方から想像すると、毒矢に当たったのかもしれない。この戦で天皇は熊襲ばかりを攻めていたが、皇后は熊襲の背後に新羅が存在することを知っていたので、天皇に新羅を討つよう進言した。しかし、天皇はそれを聞き入れずに無理して戦い負傷してしまったのだろう。日本武尊の子なので、祖父や父の偉業を継承する思いが強く、あくまでも熊襲にこだわり続けていたものかと思う。
そこで、神功皇后は武内宿禰に命じて天皇を豊浦宮で仮葬したのちに、自ら男装をして新羅への遠征を決行したのだった。そのため十城別王も、新羅遠征に従軍したようである。
因みに河野氏の『予章記』によると、このときに小千三並(おちみなみ)も将軍の一人として船で遠征に参加している。その半島への渡海の際に、船の舳先に飾っていた折敷(おしき)の一文字が波に揺れて歪んだ三文字に見えたそうである。そのため、それが越智氏の家紋(隅切折敷縮三文字)になったとも書かれている。
ただ、このときは新羅側が征討軍の主張(熊襲との同盟を責めたか?)を受け入れて謝罪したので、実戦などはほとんどなかったように推察される。しかし、十城別王は帰還後も外敵防御のため、そのまま平戸の地に留まったという。そして、この地で生涯を送ったようであり、そのため、志々伎神社の沖の島に祭神として祀られていると伝えられている。
日本武尊の二人の子は、ともに征討に明け暮れ、倭から離れた辺境の地で孤独な生涯を終えた。どこか、父の孤高の生き方にも似ているようである。