鄙乃里

地域から見た日本古代史

7.その余の旁国ってどこのこと?

 7.『魏志倭人伝』の、その余の旁国ってどこのこと?

 『魏志倭人伝』には帯方郡から邪馬台国までの順路にある国々と狗奴国のほかに、その余の旁国21カ国というのがある。その余の旁国は、それらの順路から外れたところにある国々のことで、遠く離れていて詳細は分からないと書かれているので、ほとんどが九州よりは東の国だと考えられる。

斯馬国(志摩国)巳百支国(安芸国?)伊邪国(伊予国)都支国(伯耆国?)彌奴国(美濃国)好古都国(摂津国?)不呼国(周防国?)姐奴国(野国)對蘇国(土佐国)蘇奴国(讃岐国)呼邑国(阿波国?)華奴蘇奴国(神野磯野国)鬼国(紀伊国)爲吾国(伊賀国)鬼奴国(茅渟)邪馬国(山背国)躬臣国(越国)巴利国(尾張国)支惟国(吉備国)烏奴国(淡海国)奴国(倭奴国
  
  不明なところ(?)もあるし、間違っているかもしれないが、こんな感じかな?

 この中には「但馬国」とか「播磨国」とか読めそうな国名がないから、21カ国(全体で30カ国きっちり)という説明は少しあやしいかもしれない。他の史書には「30許国」とか「30余国」とか書かれてあり、実際にはも少し存在した可能性はある。

 魏志』の最初のほうには「今使譯所通三十國(今使役が通じるところが三十国)」と書かれているが、この「使役」とは通訳であるらしい。つまり、通訳を通して話が出来る国々という意味で、必ずしも使節のやりとりがあったという意味ではないと思われる。もし往来があったのなら、その国の事情が分からないということはないはずだし、史書にも載っているはず。『漢書地理志』に「樂浪海中に倭人あり。分かれて百余国をなす。歳時をもって来たりて献見すという」から想像したものか。

 『後漢書』に「使譯通於漢者三十許国」とあるのも、主要な国を通して話が出来るという意味ではないだろうか。「使譯通於漢者三十許国」と書いているが、以前は百余国であったように記されていることから、『後漢書』のこの「三十許国」の箇所は『魏略』や『魏志倭人伝』を参考にしたのかもしれない。もし楽浪郡帯方郡に30もの国が勝手に遣いを送っていたのなら、こちらもその国について何らかの記載があるはずだ。しかし『後漢書』には57年と107年の二度しか出てこない。

 郡の役人にとっては、順路にない国は詳細が分らないのが当然ではないだろうか。ただ、どれぐらいな数の、どのような国があるかは聞けたはずだから、それをランダムに列挙しているのだと思う。

 

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(つづく)