鄙乃里

地域から見た日本古代史

9.金印は九州奴国王のものではない(2)

 9.志賀島の金印は九州奴国王のものではない(2)

 金印については「漢委奴国」を伊都国と読む説もあるが、『漢書地理志』にも「樂浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす」とあるように、中国には古くから東夷における「倭」の概念があり、「倭」を抜きにして、その一国である国王名を直接書くことは考えられない。また『魏志』の時代に千余戸(万余戸の誤りか)しかない国に、紫綬であった可能性も仮定される金印が与えられることなどあり得るだろうか。

  「倭」はもともと倭種・倭人を表し、人偏に「委ねる」の字を当てたのであるから、中国側としてはそれで通じるはずである。「倭」であると証明することよりも、「倭」でないと考えるほうがむずかしい。「い」なら「伊」と書けばいいのである。あるいは「壹」でもいい。『魏志』では「邪馬臺国」の代わりに「壹」と書いているのだから。「壱岐」の「壱」でもかまわないだろう。わざわざ紛らわしい文字を使わなくていいのである。

  それに、印章は四角に作らなければならないから(漢の時代の1寸角に作ってあるらしい)、文字のレイアウトにも工夫を要する。現物を見ると理解されるが、最初に「漢」の字を1行取っているから、「倭」に「人偏」を入れると窮屈でうまく出来ない。

 それから、奴国のほうは伊都国よりも戸数が多くて二万余戸あるが、それでも、投馬国の半分以下である。倭を代表するほどの国ではないといえよう。どんな人物を送り、どんな貢ぎ物を献上して金印を授与されたと考えるのか、はなはだ疑問である。

 

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(つづく)