鄙乃里

地域から見た日本古代史

10.金印は九州奴国王のものではない(3)

 10.志賀島の金印は九州の奴国王のものではない(3)

 『後漢書』倭伝には、倭の使者に関して次の記事がある。

建武中元二年(57年)、倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界    也。光武賜以印綬
安帝永初元年(107年)、倭國王師升等献生口百六十人、願請見

とあるが、この後半部分が『隋書』では「安帝時、又遣使朝貢、謂之俀奴國」となっていて、「倭」と「俀」は文字は違うが、どちらの遣使も倭奴國からだと書いている。「又」と書いている点にも注意を要する。そして、それに続けて卑弥呼の話が出てくる。さらに『魏志倭人伝』でも『隋書』倭伝でも、その使者はみな自称大夫を名乗っていて、上の記事にも「自称大夫」と書いてある。つまり、これらは全部同じ国であったことを示唆しているのである。
 志賀島の金印にはまぎれもなく、その「委(倭)奴国王」の文字が刻まれている。もしこれを「いと」と読むのなら、「倭奴國」と表記されている『後漢書』の印綬とは文字が異なることになり、つまり、志賀島の金印は光武帝から授与された印綬ではないということになる。大夫というのは国の要人である。上記には、みな同じ国からだと書いてある。
 そして『魏志倭人伝』には21カ国の最後に博多湾岸とは違う別の「奴国」が明記されていることを忘れてはならないだろう。

 

f:id:verdawings:20190527225058j:plain

(つづく)