鄙乃里

地域から見た日本古代史

11.倭奴国と倭(やまと)(1)

 11.倭奴国と倭(やまと)(1)

 つまり、この21カ国のうちの「奴国」の旧名が「倭奴国」なのではないかと思う。

  『旧唐書』に「倭國者、古倭奴國也」倭国は古(もと)倭奴国なり=の記述がある。

 『旧唐書』の日本関係の記事は「倭国」の条と「日本」の条に別れていて、その「倭国」の条の最初に上記の一文が書かれているのである。この時期の倭国王天皇)は年代から舒明天皇孝徳天皇に当たり、倭国が唐に使者を送ったことに対して、倭国にも唐から高表仁を遣わしたことが『旧唐書』に書かれているが、『日本書紀』の「舒明記」にも同じ内容が記されている。また孝徳天皇の時代にも新羅遣唐使に託して挨拶文を送っている。したがって『旧唐書』のこの「倭國」とは、倭(やまと)政権のことを指しているのである。即ち、倭(やまと)国(の前身)が「倭奴国」だったということになる。

 そして、この倭奴国の中に倭国(やまとのくに)が誕生したのであるから、この倭奴国奈良県に存在した国である。女王卑弥呼邪馬台国で共立された後も『魏志倭人伝』の時代には、邪馬台国に隣接する一国としての奴国が存続していたのだと思うが、王権の倭国(やまとのくに)への移行、その発展とともに奴国は自然消滅したと考えられる。とはいえ、倭国(やまとのくに)と倭奴国は元々同じ系統の国なのである。

 なぜなら、神武天皇から始まり、孝安天皇孝霊天皇欠史八代といわれる天皇らが治めていた国が、この倭奴国なのである。たとえ両国につながりがあっても、倭国(やまとのくに)の王権とは国が異なるため、『日本書紀』にも神武天皇以外は天皇の事績が記されていないのだと思われる。

 なぜ国が移行したのかといえば、それは倭国大乱の中、一族の卑弥呼が倭連合の女王に共立されたからだろうが、その都の所在地については御諸山(神南備山)信仰との深い関連性が窺われる。おそらく長期にわたる全国的な気候不順などにより飢えや紛争や疫病が絶えず、大物主神をあがめる在地勢力などに不満が鬱積して、爆発。その軋轢と混乱を収束するために、三輪山に鬼道を事とする女王の都を造る必要が生じたからではないだろうか。それまでの皇孫を大王とする男系では、奈良盆地及び諸国の在地勢力が承知しなかった。そのために倭奴国王(のちの古代天皇)とは別に女王を立てたのであろう。それが『魏志』にいう女王卑弥呼の邪馬台(やまと)国であろう。「崇神記」にも、そのようなことが書かれていたと思う。

 

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(つづく)