鄙乃里

地域から見た日本古代史

8.金印は九州奴国王のものではない(1)

 8.志賀島の金印は九州奴国王のものではない(1)

魏志倭人伝』には末廬国・伊都国の次に奴国が書かれている。戸数は2万余戸。そして、江戸時代天明年間に発見されたと伝えられる「漢委奴国王」の金印が志賀島から出ている。したがって金印が本物で弥生時代から志賀島にあったのなら、この地が奴国であったことは間違いなく、金印もまたこの奴国王のものであったと通常では認識され得る。

  しかしよく考えてみると、金印が志賀島から発見されたからといっても、それがこの奴国王の所蔵品であったという証拠は何もない。宗像神社の沖ノ島には、畿内ヤマト王権が航海安全のために島神に奉献したとされる宝物が岩上・岩陰からたくさん見つかっている。そして、その一つに金製の指輪が納められていたとしても、それは必ずしも胸形の君に与えられた指輪とはいえない。同じことが志賀島の金印にも当てはまらないだろうか。

 志賀島の金印には発見時の話や場所がかなり曖昧とか、糸島市の細石神社に旧蔵されていたはずの金印が江戸時代に紛失したとか、金印そのものの真贋も含めてまだ論争が続いているあやしい状況ではあるが、金印の由来が正しいとしたら、航海安全のために誰かが志賀島の海神の社に奉納し、あるいは岩陰などで祭祀を齋行した際の神具だったかもしれないわけである。

  その上で話を進めてみたいが、以後の考察と結論は、実際にはそうした金印の由来や真贋には直接の関わりがなく、とくにその影響は受けないものでもある。

 

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(つづく)