鄙乃里

地域から見た日本古代史

2.『魏志倭人伝』の距離はどうなってる?

 2.『魏志倭人伝』の距離はどうなってる? 

 帯方郡から倭の対北岸の狗邪韓国までの7千里は遠いが、狗邪韓国から対馬までが千里なら、たしかにその7倍ぐらいにはなるだろう。f:id:verdawings:20190518012449j:plain
 『魏志』の計算が正しいとすると、女王国までは1万2千余里だから、距離だけから考えると女王国は北部九州にならざるを得ない。豊前・豊後・筑後あたりになり、昔の高天原の領域である。その南に狗奴国がある。とすれば、狗奴国は「くまこく」で、官は菊池彦。熊襲や隼人の領域であり、中国から見れば呉の勢力圏である。一方で倭連合は魏の勢力圏。つまり、女王国と狗奴国は境界を接して絶えず紛争を繰り返していた。それはある意味、魏と呉の代理戦争のような様相もあったが、もとより卑弥呼と根子彦が不仲だったからに違いない。
 しかし他の史書によると、1万2千余里は帯方郡から「倭国」までの距離となっていて、女王国までの距離とは書かれていない。したがって、『魏志』のこの女王国とは倭国のことを指しているとも理解される。ところが『魏志』の別の場所では、「女王国より以北は」と書いていて、女王国を使い分けしている。それに、倭国対馬から始まるのなら、ただの8千里にしかならないし、末廬国でも1万里なのだから、訳が分からない。それでも、卑弥呼が都として住んでいたのは、邪馬台国(やまとこく)だと書いてある。

 

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(つづく)