鄙乃里

地域から見た日本古代史

1.魏の使者は邪馬台国まで何度来た?  

  『魏志倭人伝』の話

  古代日本の姿を紹介した記事のうち「記紀」よりも古くて最も詳しい文献は『魏志倭人伝』なので、やはり最初は共通の史料である『魏志倭人伝』の話にしたいと思います。
 『魏志倭人伝』については、これまで多数の人が様々な意見を発表されていますが、自分なりに考えた内容を、少し違ったやり方で簡略に述べてみたいと思います。概要としては、どちらかといえば素直に考えたものですから、とくに奇抜な内容はありません。ただ、結果においては既説と異なっている部分もありますし、あまり人が考えない方面についても触れているつもりです。

 


 

 魏志倭人伝』の紹介

 『魏志倭人伝』は、中国の史書三国志』のうちの『魏書』の中にある「東夷伝倭人条の通称で、3世紀末に晋の歴史学者陳寿により編纂された。3世紀頃の日本列島の国々の姿と習俗が詳しく紹介されていて、日本の古代を知る上で貴重な歴史書になっている。とくに邪馬台国女王卑弥呼に関するかなり詳細な記述があることで、よく知られている。原文は出版物や、Wev上でも読むことが出来る。

 


 1.魏の使者は邪馬台国まで何度来た?

 『魏志倭人伝』を通読してみると、魏の使者は朝鮮半島帯方郡から、少なくとも二度ぐらいは邪馬台国まで来ているようだ。
 正始元年(240)に魏の少帝・斉芳から詔書と金印・紫綬、並びに、その他の賜物が倭の女王卑弥呼に贈られた。帯方郡太守の弓遵(きゅうじゅん)を通して建中校尉梯儁(ていしゅん)らを倭国に使わして渡したものである。
 詔書印綬はもとより、これほど多量の賜物を皇帝から託されたのであれば、郡の送使らも伊都国に留まるだけでなく、倭使の難升米(なしま)らとともに邪馬台国(やまとこく)まで同道していった可能性は十分考えられるだろう。おそらく、このときに卑弥呼の宮殿の様子を見聞したものかと思われる。
 次に、正始八年(247)帯方郡太守の王頎(おうき)が、着任後に張政らを遣わして詔書と黄幢を難升米に与え、ふれ文をして諭している。ところが、張政らが到着したときには卑弥呼はすでに亡くなっていて、直径百余歩の塚を作っていたと書かれている。すなわち、張政らもそのまま邪馬台国まで向かったのだろう。そこで卑弥呼の代わりに、宗女台与を諭している。これはおそらく、西暦248年のことだろう。

 

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(つづく)