鄙乃里

地域から見た日本古代史

3.邪馬台国までの行程と方角はどう考える?

3.邪馬台国までの行程と方角はどう考える?

 伊都国あたりから邪馬台国へ至る行程は、途中の投馬国出雲国か)まで船で20日かかる。かかるといっても、日数と距離は比例しないかもしれない。昼間だけ航行して、雨や嵐が来れば海岸で休むし、天気がよければ突っ走る。つまり距離には関係なく、それだけの日数がかかったという話である。
  投馬国からまた船で北海を10日かかって丹波あたりの海岸にでも到着したものか。そこから陸を行くこと一月。この一月もおよそである。これも1日8時間ぐらい歩いて、天候や道の状況により、何日でも中断したり休んだりする。1日のノルマが決まっているわけではない。銅鏡100枚など船でなければ、どのようにして運んだものか。狭い悪路をそんなに早く運べるはずもないのである。一月ぐらいかかるのは当然ではあるまいか。
 この場合、方角は関係ないだろうと思う。魏の役人には地理も方角も見当がつかないから、倭人が適当に教えたものか、それとも『魏志』の記者が南に延びた日本列島の地図(例えばこのような)を参考にして後から書き加えたものか。何年も前の情報とか、使者により異なる報告などが、ひとつに合成されているのかもしれないし、女王国が伊都国・奴国・不国弥の南にあったから、記事中で混乱したのかもしれない。邪馬台国の方角だけがおかしいのではない。だいたい伊都国からして方角がでたらめである。九州を右に90度回して、その南に本州が続いていたら合っているかもしれない。

 


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 (つづく)