鄙乃里

地域から見た日本古代史

4.女王国は、邪馬台国だけ?(1)

4.『魏志』の「女王国」は、ほんとうに邪馬台国だけなのか?(1)

 『魏志』によると帯方郡から女王国までが1万2千余里。末廬国までがちょうど1万里なので、距離だけから考えると女王国は北部九州あたりに想定される。そして、その女王の都があるところは邪馬台国だという。そうだとすれば、女王国と邪馬台国は同じ国であり、女王国は邪馬台国のことだと認識される。

 ところが、それでは途中の投馬国や邪馬台国までの日数がまるで意味をなさなくなる。その日数から考えてみると、邪馬台国の位置は、むしろ畿内あたりが適当かと思われる。
 『魏志』には邪馬台国までの行程とその官や戸数を説明したあとに、「女王国より以北はその戸数や道里のおおよそを書くことが出来るが」と記されていることから、その「以北」の意味は、対馬国から始まる今まで通過してきた順路の国々を指し、女王国もまた邪馬台国を指しているものと推察できる。それに邪馬台国が女王の住む都であれば、そこが女王国であるのは当然のことである。

 ところが、その女王の住んでいる邪馬台国までの距離といえば、1万2千余里どころではない。では1万2千余里のほうの女王国はどうなっているのか。そこで女王国の意味が二通りに使い分けられていると考え、倭連合全体のことを指す場合もあるかと想定して計算しても、前にも書いたとおり対馬国までが8千里、末廬国でも1万里であれば、1万2千余里にはまだ足りていない。
  また、女王国が畿内邪馬台国であれば「その他の傍国は遠く離れていて詳細を得ることは出来ない」との説明が不自然な感じもする。その点、九州であれば、東の国々が遠すぎて分からないのは自然であり、とくに抵抗なく理解できるのである。

  そうなると、先の「女王国より以北」の記事も、九州の女王国を指すのか、女王の都がある邪馬台国(やまとこく)のことなのかは、必ずしも分明ではなくなる。たしかに「以北」という表現は『魏志』の方角觀からすると畿内邪馬台国でも合っているが、現実的に考えれば、むしろ九州のほうが正しい。『魏志』の全ての記述が女王国で統一されているか、あるいは邪馬台国で統一されているのなら、同じ場所の同じ国だと完全に断定できるが、実際はそうではない。女王国4回に対して邪馬台国は1回しか出てこない。はたして女王国と、その都である邪馬台国は、すべてが完全に同じ場所だといえるだろうか?

 

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(つづく)