鄙乃里

地域から見た日本古代史

11.越智玉澄の時代と湯釜薬師(2)

 11.越智玉澄の時代と湯釜薬師(2)

 道後温泉には、明治27年に本館が建設されるまで使用されていた湯釜(ゆがま)というものがある。湯釜は大きな石で造られた円筒状の温泉の湧出口のことで、養生湯で使用されていたそうだが、それが本館建設のときに新しく造り替えられたので、今は道後公園湯釜薬師として祀られている。

 その立札の説明によると、この湯釜は日本最古の湯釜で、天平勝宝年間(749~757)に造られたと伝えられているとのことである。先述の「豫州温泉古事記」によると、越智玉澄が道後温泉を発見して開発したのが天平18年(746)の冬になっている。湯釜薬師の説明が正しいとすれば日本最古と称するこの湯釜の年代は、その直後になるが、湯釜のサイズが「豫州温泉古事記」のものと異なっているので、あるいは玉澄の没後にでもさらに大きく造り替えたのかもしれない。

   → 湯釜の説明(松山市オフィシャルサイト)

 ただし、松山市教育委員会が書いているこの説明が正しいとは限らない。なぜなら道後温泉旅館協同組合のHPには、湯釜は「今から約1250年前、奈良時代行基が作成」したと書かれている。これが正しいなら、『続日本紀』には行基菩薩は749年2月2日に遷化したと記されているから、これは天平勝宝元年には当たるが、実際には2月は改元前の天平年間であったし、行基の生存期間中に造られたのなら湯釜も天平年間の製造になるだろう。

   → 「道後まつり2019」道後温泉旅館協同組合

 それに「予州温泉古事記」には行基が越智玉澄とともに温泉を造ったと記されている。地元に伝えられている玉澄の没年は747年である。そうすると、湯釜の年代はそれ以前でなければならなくなる。つまり、サイズに関しては再検討の必要があるだろうが、この湯釜は玉澄らが造った湯釜の可能性も存在することになる。たとえ湯釜の設置は数年遅れて天平勝宝年間に完成したとしても、その前に玉澄が温泉を発見し、行基と玉澄が協力して温泉を開発していたという事実は確度が高いのである。
  「予州温泉古事記」にも、玉澄が源泉を発見し都へ奏上したので、勅命によって行基が伊予へ来たように書かれている。

 また、道後温泉の所在する旧温泉郡の郡名はいつから始まるのか正確には分かっていないが、現在のところ、その初出は『法隆寺縁起并流記資材帳』に見える747年になっている。これらの史料を総合的に照合してみると、道後温泉の始まり(発見または開発)が天平18年(746)冬というのは、いずれの年代にも近く、きわめて信頼がおける年代かと思われる。

 

天平17年 745年4月 白鳳の地震に続き天平地震で石湯湮没 (「予州温泉古事記」)
続日本紀』にも 地震の記録。 4~6月は夏。
  *中央構造線活断層地震か?
天平18年 746年冬 越智玉澄が(道後)温泉を発見
(「予州温泉古事記」)
天平19年 747年 越智玉澄没 (地元伝承による)
天平19年 747年

「温泉郡」の郡名初出
(『法隆寺縁起并流記資材帳』)

天平勝宝元年 749年2月 行基和尚遷化 (『続日本紀』)
行基が湯釜を造る。(道後温泉旅館協同組合のHP)
同年間 749~757 湯釜薬師の湯釜制作年代説明
(『松山市史』、松山市教育委員会

 

  「豫州温泉古事記」の内容には具体性があり、古い時代の出来事にもかかわらず、地震の記述や人物の年代についても破綻や矛盾がない。当然のことながら、虚言など弄しても、その人にとって何の益もないわけである。道後温泉の始まりは天平の終わり頃であった可能性は高く、その道後温泉の歴史の中に、古代「伊豫の湯」であった熟田津石湯の伝承が組み込まれてきたものと考えざるを得ないだろう。

 

 

f:id:verdawings:20191112011332j:plain

(つづく)