鄙乃里

地域から見た日本古代史

10.越智玉澄の時代と湯釜薬師(1)

 10.越智玉澄の時代と湯釜薬師(1)

 明治27年に松山で刊行された宮脇通赫著『伊豫温故録』には、道後温泉の項目に豫州温泉古事記というものが引用されている。
 「豫州温泉古事記」自体についての詳細は分からないが、『伊豫温故録』は明治以前における伊豫国の地理・歴史・寺社・名所・旧跡・伝承等のあらましを郡別に網羅した地誌であり、信頼の置ける郷土史である。最近、国立国会図書館により電子データ化されているので、本編についてはオンラインで読むことも可能である。ただし「豫州温泉古事記」は続編のほうだったかもしれない。

 その「豫州温泉古事記」には、道後温泉を発見・開発したのが越智玉澄(おちたまずみ)であることが明確に書かれている。越智玉澄(玉積あるいは玉純とも書くが、ここでは記事に合わせて玉澄)は、主として文武天皇(697~)から聖武天皇(~749)の時代に伊豫国で活躍した地方国守で、越智姓河野氏の祖とされ、大山祇神社遷宮にも深く関わっている人である。したがって本記事が正しいとすれば、その年代から考えても、先の天武天皇13年(684)の白鳳大地震の際の「伊豫湯泉」が道後温泉でなかったことは歴然としている。
 この温泉古事記には、白鳳大地震のときに壊没した温泉が熟田の里の石湯であり、それが「伊豫の湯」であることも明記されていて、その上で、石湯が荒廃した後に玉澄が道後温泉を発見したことが順序立てて述べられている。

 そのとき玉澄は、霊夢(れいむ)に従って、神の眷属(けんぞく)である白鷺が谷間に飛来して休息したところを捜してみると、そこに幽泉(ゆうせん)が湯気を発していた。その場所を22尺掘ると泉脈に当たった。それは聖武天皇天平18年(746)冬のことで、それが今の道後温泉であることが詳しく述べられている(この点は先の「道後物語」の白鷺伝説とも一致している)。

 一方、白鳳大地震で壊没した熟田津石湯(ここでは熟田の里の石湯と書かれているが、斉明天皇の記事から判断して、熟田津石湯と同じものと考えていいと思う)は、国司の田中法麻呂(たなかのりまろ)が掘り起こしたり、越智玉興(おちたまおき)らが再工事をしたりして泉脈を保ち、何とか使用できていたらしいが、天平17年(745)の大震(『続日本紀』にも地震の記録がある)で東南の山岳が崩れ、完全に湮没・荒廃したという。そのため玉澄はこれを大いに憂えて、山野の神に祈り、代わりの温泉を探していたのである。

 それ以後には、あるいは道後温泉が「伊豫の湯」と称されるようになったのかもしれない。しかしその後に、古代の天皇等が道後温泉を訪れたという記録はない。それは、もはや歴代の天皇らが訪れた古代「伊豫の湯」ではなかったからであろう。

 まさに古代「伊豫の湯」は、地震によって、赤人の本歌にあるように「遠き代に 神さびゆかむ  行幸處(いでましどころ)」となってしまったのである。

 

 

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(つづく)