鄙乃里

地域から見た日本古代史

12.熟田津石湯の地は?(1)~里と郷~

 12.熟田津石湯の地は?(1)~里と郷~

 古代「伊豫の湯」が現在の道後温泉ではなく、熟田津石湯(にきたつのいわゆ)であったことがこれまでの経過ではっきりしたが、肝心の熟田津石湯の場所がどこなのかは「豫州温泉古事記」の記事からだけでは確認できない。

 そこには白鳳大地震のときの石湯の所在地が「熟田の」とだけしか書かれていない。「里」のみで郷名が記されていないので、古代の評里制の区画による地名を表しているものかと考えられ、この点は白鳳大地震の年代には適合しているようである。

 次の天平地震の時には「伊豫郷、熟田の里」とあるので、こちらは郷里制の時代で通常715~740年頃の間とされるが、地震天平17年(745)に発生しているから、誤りでなければ、地方ではまだ郷里制が続いていたと考えるべきだろうか。それともこの記事が少し過去の地名で書かれているだけことなのか。

 その頃の伊豫国にはどんな郷名が存在していたのか詳しく知り得る史料はないが、後の『和名類聚抄』(931 ~938)には伊豫国に14郡が認められる。その中に伊豫はあるが、「伊豫」という郷名は、どの郡を探しても見当たらない。しかし、これが伊予郡の誤りであるとも思えない。したがって、この史料からは、残念ながら石湯があった地域までは特定できないのである。

 真の熟田津と石湯の場所はどこにあるのだろうか…

 

 

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(つづく)