鄙乃里

地域から見た日本古代史

古代「伊豫の湯」は道後温泉?

古代「伊豫の湯」は道後温泉? まとめ

古代「伊豫の湯」は道後温泉? まとめ 1.斉明天皇が百済救援のため西征時に逗留した伊予の熟田津は、松山市でなく愛媛県 西条市である。 2.したがって熟田津の石湯、つまり古代「伊豫の湯」も「行宮」も当然、西条市であ る。 3.古代「伊豫の湯」を道…

古代「伊豫の湯」は道後温泉?

《 目 次 》 1 真実の探求は前提に対する疑問から 2 『伊豫国風土記』の湯郡と道後温泉 3 少彦名の温泉譚は地名説話 4 白鳳大地震と伊豫の湯 5 道後温泉は、熟田津石湯? 6 道後温泉 ~二つの誕生説話~ 7 山部赤人と伊豫の湯(1) 8 山部赤人と伊…

26.古代「伊豫の湯」~結び~

26.古代「伊豫の湯」~結び~ 古代「伊豫の湯」に関する記事のうち、最初に登場するのは『古事記』の軽皇子の「伊余湯」配流である。次ぎに『日本書紀』に登場する舒明天皇の「伊豫温湯宮」と斉明天皇の「熟田津石湯行宮」、白鳳地震の「伊豫湯泉」がある。…

25.熟田津石湯の地は?(14)~島山のこと 2~

25.熟田津石湯の地は?(14)~島山のこと 2~ 天保13年(1842)完成の『西條誌』にも、「歌枕名寄(うたまくらなよせ)」や「伊豫國名所歌盆石圖」からとして、「島山(しまやま)」を詠んだ歌がいくつか紹介されている。 雲間より 入日にまかふ 志万山の…

24.熟田津石湯の地は?(13)~島山のこと1~

24.熟田津石湯の地は?(13)~島山のこと1~ 最後に、以前に話した「島山」の件について触れておきたい。 山部赤人の万葉歌(巻三322)に、 皇神祖の 神の命の 敷います 國のことごと 湯はしも 多にあれども 島山の 宜しき國と こごしかも 伊豫の高嶺の …

23.熟田津石湯の地は?(12)~橘の里と伊豫郷~

23.熟田津石湯の地は?(12)~橘の里と伊豫郷~ 先述の自然災害の件に関しては『旧故口伝略記』に以下のように書かれている。 ニギタヅ村、後にニギタ村と申す。其の後天文年中の大水大汐に在家過半流れ、是より家や村は南山の麓に建てこの家も天正の兵火…

22.熟田津石湯の地は?(11)~橘天王の石湯と五度の行幸~

22.熟田津石湯の地は?(11)~橘天王の石湯と五度の行幸~ 『旧故口伝略記』には「橘天王が石湯を造った」との記事が見える。これを古代「伊豫の湯」の石湯と混同される人がおられるかもしれないが、湯の岡が昔から存在するように、古代「伊豫の湯」の石湯…

21.熟田津石湯の地は?(10)~古代「伊豫の湯」と災害~

21.熟田津石湯の地は?(10)~古代「伊豫の湯」と災害~ 684年の白鳳地震により古代の『伊豫の湯』が壊没(かいぼつ)して出なくなった。これは『日本書紀』に書かれている。その後の工事により湯脈は回復していたらしいが、古来の湯池が損壊して周囲の美…

20.熟田津石湯の地は?(9)~橘の岡~

20.熟田津石湯の地は?(9)~橘の岡~ 今は存在しないが、当地には昔、岡があったようである。 橘新宮神社の『旧故口伝略記』には、 橘 岡昔、此岡を石湯の岡とも申せしとぞ。その後橘天王の宣言に依りて橘岡と申すなりとぞ。 真鍋充親著『伊豫の高嶺』よ…

19.熟田津石湯の地は?(8)~石湯八幡と橘の木~

19.熟田津石湯の地は?(8)~石湯八幡と橘の木~ 西条市西田の東の地続きに安知生(あんじゅう)という土地がある。橘新宮神社の旧跡は最近まで西田の畑地だったが、何年か前に区画整理されたため、現在の地図では安知生新開に入っているようである。 新…

18.熟田津石湯の地は?(7)~神像の年代について~

18.熟田津石湯の地は?(7)~神像の年代について~ そのほかにも、写真で見る公卿神像が「そんなに古いようにも見えない」との(墨書に対するらしい)否定的な:言辞もあった。それはそれで、見る人の判断だから仕方がない。その人なりの率直な感想だとし…

17.熟田津石湯の地は?(6)~『旧故口伝略記』の話~

17.熟田津石湯の地は?(6)~『旧故口伝略記』の話~ 橘新宮神社には神像のほかにも『旧故口伝略記』(きゅうこくでんりゃっき)という文書があり、真鍋充親著『伊予の高嶺』に採録されている。ただ原文通りというわけではなく、内容はそのままに、表記を…

16.熟田津石湯の地は?(5)神像と墨書

16.熟田津石湯の地は?(5)神像と墨書 少し余談になるが、ある本に、この公卿神像の墨書について「もしこの文字が、盲信した神主により加筆されたものだとしたら、信じた場合には大変なことになる」という意味のことが書かれていた。これを読んで驚いた。…

15.熟田津石湯の地は?(4)公卿神像

15.熟田津石湯の地は?(4)公卿神像 橘新宮神社(たちばなしんぐうじんじゃ)は、現在は豊受大神・天太玉命・瓊瓊杵尊を祀っている。伊勢外宮の祭神であるが、これはおそらく元の橘神宮の社名や、中野の伊曽乃神社が内宮の天照大神(荒魂)を祀っているこ…

14.熟田津石湯の地は?(3)~熟田津と西田村~

14.熟田津石湯の地は?(3)~熟田津と西田村~ 熟田津が松山周辺でなければ、熟田津の地はいったいどこにあるのだろうか? 先の『伊豫温故録』には、次のような一文が書かれている。 真の熟田津の地は道前なる新居郡西田村なり そこでは『保國寺縁起』と…

13.熟田津石湯の地は?(2)~熟田津松山説~

13.熟田津石湯の地は?(2)~熟田津松山説~ 熟田津の場所を知るためには、熟田津の意味から考えてみる必要があるかもしれないが、いずれにしても、熟田津そのものは津である。津は海岸の船着場である。 熟田津松山説では、熟田津の比定地として御幸寺(…

12.熟田津石湯の地は?(1)~里と郷~

12.熟田津石湯の地は?(1)~里と郷~ 古代「伊豫の湯」が現在の道後温泉ではなく、熟田津石湯(にきたつのいわゆ)であったことがこれまでの経過ではっきりしたが、肝心の熟田津石湯の場所がどこなのかは「豫州温泉古事記」の記事からだけでは確認できな…

11.越智玉澄の時代と湯釜薬師(2)

11.越智玉澄の時代と湯釜薬師(2) 道後温泉には、明治27年に本館が建設されるまで使用されていた湯釜(ゆがま)というものがある。湯釜は大きな石で造られた円筒状の温泉の湧出口のことで、養生湯で使用されていたそうだが、それが本館建設のときに新しく…

10.越智玉澄の時代と湯釜薬師(1)

10.越智玉澄の時代と湯釜薬師(1) 明治27年に松山で刊行された宮脇通赫著『伊豫温故録』には、道後温泉の項目に「豫州温泉古事記」というものが引用されている。 「豫州温泉古事記」自体についての詳細は分からないが、『伊豫温故録』は明治以前における…

9.聖徳太子の伊社邇波の岡

9.聖徳太子の伊社邇波の岡 山部赤人の本歌の射狭庭(いさにわ)の岡と、聖徳太子等が訪れた伊社邇波(いざにわ)の岡とでは文字が異なるため、これらは別であり、読み方も上記のように異なるとの指摘もある。 上宮聖徳の皇を以ちて、一度と為す。及、侍は…

8.山部赤人と伊豫の湯(2)

8.山部赤人と伊豫の湯(2) また山部赤人の本歌にある「島山」は、筆者も最初は島と山のことだと解釈していたが、よく読むと、本当に島と山のことだろうか。なぜなら、島と山を褒めておいて、また続いて伊豫の高嶺が詠まれているのは、いかにも重複して不…

7.山部赤人と伊豫の湯(1)

7.山部赤人と伊豫の湯(1) 山部赤人の万葉歌(巻三 322)は古代「伊豫の湯」を詠(うた)ったものと思われる。実際にも、前書きにそう書かれている。 山部宿禰赤人、伊豫の温泉に至りて作る歌一首 并に短歌 皇神祖(すめろぎ)の 神の命の 敷います 國の…

6.道後温泉 ~二つの誕生説話~

6.道後温泉 ~二つの誕生説話~ 現在の道後温泉の誕生説話には二通りがあり、先述の『伊豫国風土記』の少彦名命の伝説と、[白鷺飛来説」の二話が伝えられている。 [白鷺飛来説」のほうは、こうである。 昔、足に傷を負い苦しんでいた一羽の白鷺が岩間から…

5.道後温泉は、熟田津石湯?

5.道後温泉は、熟田津石湯? 松山では「道後温泉は昔は熟田津石湯(にきたつのいわゆ)と称した」ともいっている。それでは熟田津石湯の意味は何か。それがいつ、なぜ道後温泉に名称変更されたのか。その両者の具体的な関係はどうなっているのかなど、その…

4.白鳳大地震と伊豫の湯

4.白鳳大地震と伊豫の湯 『日本書紀』によると、天武天皇13年(684年)の白鳳大地震により伊豫の湯が壊没して出なくなっている。土佐では陸地が海になっている。伊豆の島にも造島現象があったらしい。海溝型の連動地震で、東日本大震災や宝永地震ほどの規…

3.少彦名の温泉譚は地名説話

3.少彦名の温泉譚は地名説話 「風土記」は元明天皇の和銅6年(713) 5月の官命により編纂された各地方の報告書のようなもので、国別の地勢・産物・故事・伝承などが記されている。中でも特徴的なのは、地名の由来を説く地名説話が多いことである。この「湯…

2.『伊豫国風土記』の湯郡と道後温泉

2.『伊豫国風土記』の湯郡と道後温泉 古代「伊豫の湯」道後温泉説は、もともと『伊豫国風土記』逸文の記述を根拠として成立している。 伊豫の國の風土記に曰はく、湯の郡、大穴持命(おおなもちのみこと)、見て悔い恥ぢて、宿奈比古那命(すくなひこなの…

1.真実の探求は前提に対する疑問から

1.真実の探求は前提に対する疑問から 『伊豫国風土記』にみられる古代「伊豫の湯」と代々の天皇並びに聖徳太子らの来訪記事に関しては、事実の探求よりも伝承が一人歩きしているため、『釈日本紀』引用の『伊豫国風土記』逸文を根拠とした道後温泉説に落ち…