鄙乃里

地域から見た日本古代史

26.古代「伊豫の湯」~結び~

 26.古代「伊豫の湯」~結び~

 古代「伊豫の湯」に関する記事のうち、最初に登場するのは『古事記』の軽皇子の「伊余湯」配流である。次ぎに『日本書紀』に登場する舒明天皇の「伊豫温湯宮」と斉明天皇の「熟田津石湯行宮」、白鳳地震の「伊豫湯泉」がある。
 また『万葉集』の軍王(いくさのおおきみ)の反歌(巻一、6)と額田王の「熟田津」の歌(巻一、8)の各々の註釈に「山上憶良『類聚花梨』に曰く」として「伊豫温湯宮」「熟田津石湯行宮」があり、山部宿禰赤人の本歌(巻三,322)のタイトルに「伊豫温泉」が出てくる。
 ほかに成立時期は不明だが『伊豫国風土記逸文にも「湯」と書かれている。

 しかし古代「伊豫の湯」が道後温泉との記述はどの書にも、一行たりとも記されていない。そう勝手に解釈しているのは後世の史料(とくに江戸時代の郷土史料)などで、古代「伊豫の湯」が埋没した事実を知らないための誤解に過ぎないのだが、それを現在の諸本がそのまま引用しているのである。少なくとも奈良時代中期以前の書物には「道後温泉」は一度たりとも出てこない。それなのになぜ、みんな古代「伊豫の湯」は道後温泉のことだと簡単に言い切れるのだろうか?

 その最たる所以は『伊豫国風土記逸文「湯郡」の一語と、道後温泉が今も伊予国に現存する著名な温泉だからであり、そこから松山市や学者らが頭の中で勝手に導き出した結論にすぎないわけである。そして、その結論を、以後の学究らが無批判に踏襲しているだけのことであろう。
 それらはもちろん道後温泉説にとっても強力な要素の一つ二つではあるが、それ以外に何も求められないのでは、十分な説得力とはいえない。

  『日本書紀』は舒明天皇が冬に「伊予温湯宮」行幸したことを記していて、『万葉集』にも2度の行幸記事が確認される。しかし、それほど変わらない時期に斉明天皇がしばし逗留したのは「熟田津石湯行宮」である。どちらも古代「伊豫の湯」なら、なぜ同じ名称で書かれていないのだろうか。もちろん同じ場所かも知れないのだが、温泉名が異なるなら場所も異なる可能性があるとの「疑問」ぐらいは抱いてしかるべきだと思う。ところが、そのような疑問は、ほとんど聞いたことがない。両所はストレートに同じ温泉であり、即ち道後温泉のことだと考えられているようである。

 しかしながら、実際に舒明天皇が訪れているのは「伊豫温湯宮」とあり、道後温泉(もしくは、それに変わりうる温泉名)は全然書かれていないのが事実である。そこには「伊豫温湯宮」イコール「道後温泉」だという根拠が欠落している。松山には斉明天皇天智天皇の伝承すら見当たらないのである。

 しかるに、松山市や学者がいくら勝手に道後温泉に決めたからといって、『古事記』や『日本書紀』や『万葉集』にも書かれていないものを、なぜ「湯郡」の一語だけで道後温泉だと断定できるのか不思議でならない。さらに熟田津と古代「伊豫の湯」はセットでなければならないと思うが、熟田津と道後温泉を関連づける説得力のある論拠は何ら見いだせないのである。

 つまり、これらの疑問点については、何も答えられていない。

 ほかに、もう一つ二つ松山説の理由を挙げるとすれば、赤人の祖先の山部久米小楯(おだて)が現在の松山市の出身であったり、久米官衙(くめかんが)の存在があったりはするが。もともと行宮などというものはそんなに立派なものではない。天智天皇の木丸殿(このまろどの)なども文字通りの粗末な丸太小屋(ログハウス)であろう。宮殿を建造する日数もそんなにないのだから当然のことである。その行宮の遺跡を考古学的に発掘したりするのはまったくおかしな話である。見つかるわけがない。幸運に見つかっても掘立式の小さな柱穴ぐらいなものだろう。久米官衙など無関係だと思う。

 それでも、ほかに異論を唱える学者もほとんどいないから、松山市もこの路線で既成事実を積み重ねて、そのまま突っ走ろうとしているだけのように見える。「豫州温泉古事記」に道後温泉の発見は746年と書かれているのに、それでも周辺から縄文式土器が出土したからという理由で、道後温泉は3千年の歴史があるかのように宣伝しているのである。
 それでは「豫州温泉古事記」は、全くのでたらめを書いているのかということになる。西条の熟田津石湯は何のために存在しているのかということにもなってくる。

  
 もちろん古代「伊豫の湯」や熟田津の実際地が既説と異なっていれば大事件のように言う人もいるにはいるが、古代の歴史的事実が少しぐらい違っていたとしても、現代に及ぼす影響などは微々たるものだし、誰もかれもがスマホや車の時代、自分の暮らしに直結するものでもない地方の歴史に、それほど強い関心を抱くはずもないのである。

 松山市の活性化に水を差すつもりなどさらさらないし、むしろ熟田津石湯の歴史を継承している道後温泉の発展は今後とも大いに願うところだが、かといって、道後温泉を熟田津石湯のようにいうのはいかがであろうか。知名度や観光客誘致に有用でさえあれば、過去の歴史はどうでもいいというものでもないだろう。

 道後温泉もきわめて古い温泉であることは間違いないし、地元の活性化が大事ならそれでもいいのだが、観光や商業とは一度切り離して、史料や事実に照らして客観的に再検証してみてもいいのではないだろうか。そうすれば道後温泉が古代「伊豫の湯」や熟田津石湯でないことが明白にはなるだろうが、その結果がどうあろうと問題はない。
 栄光ある古代「伊豫の湯」の故地には伝説の名残のような小さな湯之谷温泉しか残されていないが、松山には全国的にも有名な道後温泉奈良時代から1270年も存続しており、現在も観光地として大いに繁盛しているのだから…。

 

 

   ※伊豫の湯の通説に関して疑義を呈したものに次の小論文があります。
    大学教授によるこのような論文は珍しいです。
   

     https://ci.nii.ac.jp/naid/110003502953

    このページからPDFを開くと→『伊豫温湯存疑』岩松空一

 お詫び オンラインで閲覧できなくなったのか、本文へのリンクがないようです)

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石鎚山  伊豫の高嶺

(おわり)
 これで古代「伊豫の湯」は道後温泉を終わります。最後まで読んでいただきありがとうございました。
 次回は(まとめ)になります