鄙乃里

地域から見た日本古代史

23.熟田津石湯の地は?(12)~橘の里と伊豫郷~

23.熟田津石湯の地は?(12)~橘の里と伊豫郷~

 先述の自然災害の件に関しては『旧故口伝略記』に以下のように書かれている。

ニギタヅ村、後にニギタ村と申す。其の後天文年中の大水大汐に在家過半流れ、是より家や村は南山の麓に建てこの家も天正の兵火に焼、同年冬大地震、又程もなく慶長元年申の歳大地震、秋洪水なり。此の年地震に中野村の八堂山崩れ、鴨川をせきてありぬ時、大水出でて中野村、ニギ田村川となる。
此の時、中津の神跡も人跡も絶えてニギ田村の号も絶えたるとぞ。

                                               (真鍋充親著『伊予の高嶺』による)

 ここでは、熟田津村は後に熟田村と称したと述べているが、いつごろ村名を変更したのか詳細は書かれていない。

 前の「豫州温泉古事記」でも石湯の場所は「熟田の里」と書かれていて、後には「伊豫郷、熟田の里」となっていた。それが偶然かどうか、「豫州温泉古事記」の郷名が正しいかどうかなど確認できないが、西田の旧跡の場合は「伊豫郷」ではなさそうに思われる。

 平安時代の『和名類聚抄』によるとこのあたりは神戸(かんべ)郷で、明治時代の新居郡神戸村、現在は西条市の神戸校区に当たる。ただし、神戸郷は伊曽乃神社の封戸に由来した郷名であるから、少なくとも封戸が与えられた766年頃以前には別の郷名があったはずである。

 その点については神戸郷全域が旧は加茂郷との説もあったが、伊曽乃神社付近の中野村は別としてもこの地域一帯は古来、橘の里と称していることから、熟田津村も西隣の氷見村(ひみむら)と同じく橘郷ではなかったかと想定される。

 橘新宮神社の由緒にも昔は一名「花の郷神宮」とあり、郷名は通常、漢字2字で表すので、この「花」は「立花(橘)」の略だろう。だとしても史料がないだけで、それ以前にも他の郷名が存在したかもしれない。

 この熟田津石湯が古代の「伊豫の湯」だとすれば、それが「伊豫の湯」と呼ばれ、聖徳太子らが逍遙した村も「夷與(いよ)の村」と書かれていることから、この地域が「伊豫郷」と称されていた可能性まで否定することはできない。が、逆にいえば『伊豫国風土記逸文に「夷與の村」と書かれていたから「豫州温泉古事記」が「伊豫郷」に作ったのかもしれず、『和名類聚抄』には他郡にも「伊豫郷」が見当たらないことから、そのあたりはまだ不透明な部分が多い。それに当地が古代「伊豫の湯」であることは自分には十分に信じられても、まだ一般に広く認知されたわけではない。

 したがってここでは、「伊豫の湯」が存在した土地なら、当時の郷名が「伊豫郷」であっても不思議ではない、という程度に止めておきたい。

 

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(つづく)