鄙乃里

地域から見た日本古代史

21.熟田津石湯の地は?(10)~古代「伊豫の湯」と災害~

 21.熟田津石湯の地は?(10)~古代「伊豫の湯」と災害~

 684年の白鳳地震により古代の『伊豫の湯』が壊没(かいぼつ)して出なくなった。これは『日本書紀』に書かれている。その後の工事により湯脈は回復していたらしいが、古来の湯池が損壊して周囲の美観も損なわれたためか、以後は国史等に「伊豫の湯」は登場しなくなり、天皇らが行幸を中止したらしいことが推察される。
 「豫州温泉古事記」によると、続いて天平17年(745)の地震で南東の山岳が崩れ、「伊豫の湯」は完全に埋もれて荒廃したと記されている。

 西条市の旧石湯の地一帯は後世にも天正の陣で戦場になり、天正地震(1586)や慶長の伊予地震(1596)により岡が崩れたり、加茂川の洪水により土砂が流されたりして、江戸時代には完全に平坦化されてしまったようである。これは現在の西条市洲之内(すのうち)の水田である。

 その洪水の際の土砂が昔の熟田津に押し流されて堆積したらしく、中野・安知生(あんじゅう)・洲之内など東の村落の人たちが、その浅瀬を掻き上げて再び水田に変えたという。それがJR予讃線より北側の西田あたりの新開地である。

 熟田(にぎた)が西田(にしだ)に変わった理由は、一柳西條藩改易後の役人の調査で誤って上申されたことが大きいと思うが、前記の村落よりも西側に出来た田んぼなので、自然に西田と呼ばれたとしても、とくに不思議ではない。ただ、その場所は以前に壊没した熟田津の中州には違いなく、先に『保國寺縁起』が「(熟田津)今俗西田作非也」と書いているのもこの意味なのである。

 その中州に、かつては斉明天皇の石湯行宮跡だという旧橘新宮神社(橘天王社)が存在していたが、天文年間以後の度重なる災害でその神跡(しんせき)も絶えてしまった。その代わりに、以後はその神跡の目印として一樹が植えられてきた。それを御所殿木(ごしょどのぎ)と称して、今は何代目か知らないが、枯れると代々に植え替えられてきたものだろう。現在の御所殿木の松は平成8年に前の松が枯れて植え替えられたものだと聞く。

 この御所殿木から、南の山麓湯之谷温泉が見える。距離は1キロ弱かナ? その向こうは低い山崖で、中央構造線はもう少し南を横切るが、それに連なる中央構造線断層帯が通っている。
 先の白鳳地震は『日本書紀』の記述から南海トラフの連動型地震とされているが、天平地震及び文禄5年(慶長元年)の伊予地震中央構造線活断層のズレによる直下型地震ではないかと推測される。
 この伊予地震は数日おいて豊後・伏見へと続いた広範な地震で、そのために元号が文禄から慶長に改元されている。最後の伏見地震については中央構造線ではないが、その影響を受けたものか、もしくは偶然に地震の周期が重なっていたものかもしれない。この地震豊臣秀吉伏見城も倒壊したのである。先般の大阪の有馬-高槻断層帯地震と同じ場所のようにも指摘されている。

 地震のほかにも西条を流れる加茂川の洪水がたびたびあり、石湯の岡は崩れたり、流されたりして、古代「伊豫の湯」の栄光ある歴史も長い年月のうちに人々の記憶から完全に消え去ってしまった。
 しかし、後世になって、また冷泉が湧出するようになったのだろうか、現在の湯之谷温泉は、場所や地名からして、その名残ではないかと考えられる。また、その伝承は道後温泉に引き継がれ、『伊豫国風土記』や山部赤人の歌の中で、今も鮮明に生き続けている。

 しかし、もし橘新宮神社の『旧故口伝略記』と神像と熟田津の伝承地が当地になかったら、おそらく今も歴史の真実は闇の中であり、ただ通説どおり、間違いなく道後温泉の歴史として、すべてが教科書の中で語り継がれていたに違いない。

 

 

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(つづく)