鄙乃里

地域から見た日本古代史

7.山部赤人と伊豫の湯(1)

 7.山部赤人と伊豫の湯(1)

 山部赤人の万葉歌(巻三 322)は古代「伊豫の湯」を詠(うた)ったものと思われる。実際にも、前書きにそう書かれている。 

   山部宿禰赤人、伊豫の温泉に至りて作る歌一首   并に短歌

 皇神祖(すめろぎ)の   神の命の   敷います   國のことごと   湯はしも   多
(さわ)にあれども 島山の   宜しき國と   こごしかも   伊豫の高嶺の   射狭庭(いさにわ)の   岡に立たして 歌思ひ   辭(こと)思はしし   み湯の上の樹群(こむら)を見れば   臣(おみ)の木も   生い繼ぎにけり 鳴く鳥の聲(こえ)も變らず   遠き代に 神さびゆかむ   行幸處(いでましどころ)
 
                       反歌

   ももしきの大宮人の飽田津に船乗しけむ年の知らなく
 
          (岩波書店   日本古典文学大系萬葉集1』) 

 この本歌にある伊豫の高嶺石鎚山だと思う)は、はたして道後温泉付近からでも、峨々(がが)として神々しく眺められるだろうか? 松山城の城山にでも登れば遠くに尖った山頂が見えるかもしれないが、道後温泉付近では、まず無理ではないだろうか。見えたとしても三角型であり、あまり「こごしかも」という感じではない。 

 そのため先の論文でもいろいろな釈明をして、実は伊予の高嶺は石鎚山ではなく伊豫の高い連山のことで、射狭庭(いさにわ)の岡はその連山のはるか連なりにある麓の岡の意味だとか無理に解釈しているが、そんな岡を詠むのに、見えるか見えないかの遠く離れた伊豫の連山をわざわざ持ち出す必要があるだろうか。
 
 この「伊豫の高嶺」の前に赤人が詠んでいる「不盡の高嶺」が駿河を代表する富士山から考えても、高嶺は、その国で最も高くそびえ立つ代表的な山でなければいけないはずだ。また「こごし」とは、辞書には「岩がごつごつしていて険しいさま」とあるが、伊豫の連山の中で、そのように際立って見える山頂は石鎚山しかない。「伊豫の高嶺」が石鎚山以外であるはずがない。石鎚山を仰ぎ見ることが出来ない場所で、赤人が「伊豫の高嶺」の歌を詠むことはあり得ない…と思う。

 少なくとも、正面あたりに伊豫の高嶺(石鎚山)の山頂が「こごしかも」という感じで見えなければ、この歌は詠めないのである。

 

 

f:id:verdawings:20191024135552j:plain

(つづく)